shinmakoto_9のブログ

うだつの上がらない人、現状に不満がある人、幸せを感じられない人、全員大歓迎。記事を読んで、内容を実践していってください。

どうすればより良い人生を生きられるか

 

 

 

-真-  人生磨き    

どうすればより良い人生を生きられるか

毎日の積み重ねが未来を作る

充実した人生を送るためのステップバイステップガイド



(飛ばしたい人は目次から飛んでください)

 

 



はじめに

こんにちは、真です。このページでは、人生をよりよく生きるための哲学・科学的考察と、実践方法をお教えします。

私が今から述べる方法は、ただの学生である私の人生経験のみならず、非常に優れた教えの書かれた10冊の本、その他自己啓発本、科学論文を元にした著作から得られた知見を元に作られています。もちろん、作ると言ったって大したことはしていません。私よりもずっと優れた人間が、何十年も前に体系的に方法をまとめているのですから、それを噛み砕いて現代の人にわかりやすいようまとめただけです。私よりもう少し前の世代の方々も注釈本を出してくれていますし、原文より平易な言葉で解説してくれていますが、技術の発展、世の中の物質的進展が目まぐるしい今日には、早速それらの注釈本も伝わりにくくなってしまっています。時代のギャップというやつです。

なぜこんなことをするのか。何十年も前の教えをそのまま引用して現代人に紹介したところで、流石に話が前すぎてよく分からないし、だいぶ価値観が違います。核となるのはその人の教えなのですが、そもそも当時からユニークで、素直に受け入れられない人、飲み込めない人は大勢いました。あと、単純に現代人が知らなさすぎるからです。こんなにも重要で、ボロボロだった私の心に光を灯した教えなのにも関わらず誰も知りません。仮に教えを知っていても断片的です。体系的に理解して初めて実践に身が入るものですから、それでは意味がないです。なので私がわかりやすく解説しようということです。

どうも本人は、こういうことを教えていると広告を打ったことはないことから推察するに、あまり世の中に自分自身の存在自体、及び本人が作った財団法人の存在は宣伝して欲しくないのだと思います。知る人ぞ知る感じで構わないというのでしょう。ただ教え自体は広まって欲しいようなので、私が少しでも力になれたらと思い書いています。一応本の引用はしておきます。興味があったら原文に当たってください。本人と団体の名前に触れることはしません。

また、自己啓発、自分磨き系の発信は流行っていますが、これまた一部をのぞいてほぼ全て断片的。バラバラに分けられてしまっていますし、全て二義的な教えです。つまるところそのような教えを求めて実践しようとするのは、人生を少しでもよく生きたいからだと思います。そもそも人生を少しでも良く生きるにはどうすればいいのか、どういう方法があり、何をどういう順番でしていけばいいのか、これを発信している人は見たことがありません。おそらく伸びないのでしょう。しかしバラバラの発信源から単発の情報を得ても、考え方が発信者それぞれで違いますから、混乱するだけです。まぁそりゃ複雑化したこの世の中で、万人受けしそうなわかりやすい細分化された豆知識みたいな情報しか発信していない人がほとんどですから、そういう人が一人であれもこれも発信することはできませんね。馬鹿にしているわけではないですが、こういう系の情報発信で主なものには、お金、恋愛、副業、仕事、就活、QOL向上などが挙げられます。さらにお金稼ぎにも今はいろいろあります。NFT、会社株式投資、世界株投資、億り人術、情報発信術...。

こんなにたくさんあったのでは、一人の人がこれらについて単体の各論的情報を発信するのは無理です。NFTに精通していても、同時に一から商品を作って売り出す副業スキルもあるとは思いませんし、恋愛もできないかもしれません。できるとしても、万人受けする無難な各論的情報を発信できません。だから、このように発信者が山のようにいるのです。

で、忘れてはいけないのは、これらは全て「人生をよりよく生きる」ために人々が求める細分化された情報にすぎないのです。要は

何をすれば人生をよりよく生きれて、幸福になれるのか。何をしちゃいけないのか

これについてはまだよくわかっていないわけです。お金を稼げば幸せになれるかというと必ずしもそうではないですし、モテを攻略しても、永遠に数だけ追い続けるゾンビになってしまっては幸せではありません。情報発信者の多くは「お金を稼ぐ方法」「異性にモテるようになる方法、関係性を継続できる方法」を教えてくれても、肝心の大元である上記については教えられないのです。

これを数十年前の人がほとんど解明し、哲学・科学的理論も、何をすればいいかという実践手段もわかっています。数十年前どころか、200年前ほどにもすでにある程度広まっています。教会の教えにそぐわないという理由からその教えが書かれた本は発禁処分をくらった過去がありますが。

更に教えの根源を辿れば、2000年以上前にすでにこの教え、考え方はありました。旧新両方の聖書にも根源にある考え方は抜粋され記されています。三代宗教、及び仏教の開祖も、似たようなことを言っています。ただ、何をすればそうなれるかという具体的方法は記されていないし、仮に書かれてたとしても婉曲的なのか、誰もわかっていないです。でなきゃ聖書を読んで人生は解決するはずですから。宗教を信仰する人たちが、他宗を迫害し互いに殺し合っているこの矛盾を考えれば、宗教が人にこれらの方法を伝えられていないことは、容易にわかることです。

ということで、目次にある通りの順で「どうすればよりよく生きれるか」を説明します。前置きが長くなったので早速説明していきたいところですが、その前に自己紹介をします。後々個々の項目を具体例も入れて説明する時、やりやすいので。

自己紹介

今はこんな偉そうなことを言っていますが、私は生来の先天的疾患、ネット依存により、もう毎日気分が上がらない、全てがモノクロのような日々を過ごしていた人間でした。とは言っても、恵まれた家庭に生まれ育ち、両親の厚い庇護を受け、小中高と恵まれた仲間に会うことができ、現在も大学に通って貴重な日々を過ごしています。一見非常に恵まれていますし、こんな環境で幸せを感じない人生を送ってきたなんて信じられないでしょう。これを読む人の中には、私よりも恵まれない人はたくさんいると思います(別に自慢ではなく客観的に考えてですが)。よく目にする恵まれない人のサクセスストーリーとは訳が違います。ですが、精神的には一時期本当にきつかったです。

人間というもの、結局はその人が幸せを感じるか否かによって人生の幸福度が決まるわけですから、いくら客観的に見たら恵まれていても、肩書きがあっても、たくさんの所有物を有していても、本人が幸せを感じることのできる精神状態でなければもはや幸せでないのと同じです。このことは綺麗事ではなく、本当に実感しました。

小学生時代

小学生までは問題なく過ごしてきました。というかこの時が人生で2番目に充実していたと言っても過言ではありません。その頃から先天性疾患はありましたが、今考えたら明らかに周りよりも恵まれた家庭に育ち、身体能力にも恵まれ、望んだものは基本手に入る。非常に贅沢で、恵まれていました。当時はとても活発で誰彼関係なくよく喋る子だったので、楽しかったです。当時はそんなこと思いやしませんでしたが、楽しいと都度感じていたという記憶だけは残っています。

身長は小さく、前ならえでは前から3番目(クラス30人中)を六年間キープしていました、おそらく成長が遅いタイプだったのでしょう。頭の方は決していいとは言えず、成績もよくはありませんでしたが、悪くもありませんでした。ただ、そっちの方だけはませていたのか彼女がいました。付き合い方はほぼ可愛い遊びみたいなものですが、なかなか早い方です。しかも、それなりに進みました。幼いからこそ大人のフリをしたかったのでしょう。小学生までは、日々人生に幸せを感じながら生きていたと思います。

中学生時代

中学生のころから、だんだん暗転していきました。小学校は6年間同じところに通っていましたが、その地元の中学校の治安があまり良くないということで、同じ市内ですが学区を移しました。端的にいうと引っ越しです。引っ越しのタイミングは中学入学と同時なので一見問題ないように見えますが、周りの子はその地域にある大体3つの小学校から進学してきたのに対し、私は完全な1人でした。全く知り合いはおらず、自分以外の子達はその子達同士で知っているという状況です。3つの学校なので、もちろん知らない子が複数人いるというのはその地域の小学校から上がってきた子たちにとっても同じですが、精神的にはきつかったようです。

元来人見知りはしない方でしたが、そういう状況に立たされて初めて、自分が周りの人と違って先天性疾患を持っているということを気にし始めました。そこで、だんだんコミュニケーションが上手く取れなくなってきて、人見知りになりました。ちなみにどんどんコミュ障になっていく私を見て小学校の時付き合っていた子は離れていってしまいました、当然ですし、私ももはやそんなことは知りませんという感じでした(強がり)。

それと、この地域は非常に教育水準が高く、前いた学校とは比べられないほどテストの点数、会話のレベルが高いようにも感じたのです。当時仮にそんな大きな違いがなかったとしても、相対的な中でしか物を測れない中学生だったので、大きな疎外感を覚えました。ただ、ここまでならまだ対応できたはずです。問題はそのあとです。

iPadスマホを手に入れました。そのあたりから色々とおかしくなり始めました。当時はスマホが普及されてから時間が経っており、すでに小学生も5、6年生くらいなら割と持っている人は多かったので、気になってはいました。そこでこの最新鋭の機器を与えられたので、見たいと思っていた漫画、アニメは際限なく見始め、勉強の時間はもちろん、だんだん人と話す時間も少なくなっていきました。

コミュニケーションを上手く取れる状態でスマホを与えられたら、普通はLINEで友達との会話、おでかけの話に勤しむはずですが、当時はむしろその逆で、人に素直に話しかけられず、疎外感を覚えていた頃ですから、そのような人生をよくするはずの機器を、隠れ蓑にするようになり、1人の世界にこもるようになっていきました。

部活には入っていましたし、学校は皆勤、行事はそれなりに楽しんだのですが、休日に新しくできた友達と遊びに行くことはなく、むしろスマホiPadで遊んで家にこもることが多くなりました。ちなみにその間勉強は10分もしていなかったと思います。

この時期は人間性を育み、人間関係を学ぶ上で非常に大事な時期です。そんな時期に友達と遊ばず、家にこもってばかり、たまに学校で話そうと思ったら、コミュ障を発揮して上手く喋れない。人と話をすることが脳を成長させ活性化させます。大人でも同様ですから、この時期は尚更人間の発達のために大事なのです。アニメ、漫画、エンタメYouTubeをいくら見たって人と話すのが上手くなるわけはなく、頭もよくなりません。

成績も全く振るわず、もともと苦手だった数学・英語は学校で後ろから一桁のレベルまで落ち込みました(230人の中学校)。もちろんもっと早い時期に依存が開始していたら、もっと依存から抜け出すのには時間がかかったでしょうが、この時期にこんなことに大量の時間を費やしていた結果、後に学年が進むにつれ遊べるほどの友達はできても、やはりどこかクラスでも浮いており、先生にも心配されていました。せっかく恵まれた家庭・身体能力・本来の快活さを持っていたのに、不満ばかり抱き、幸せを感じることは少なくなっていました。

中学3年生ころから段々馴染んできて(というより部活が超大変でiPadスマホで遊ぶ時間が大幅に減った)遊べる友達も増えました。よく話す女の子もそれなりにいて、女の子に緊張するとかそういうことはあまりありませんでした。ただ、興味のある子には上手く話しかけられない、天邪鬼になってしまうという現象がおきました。完全にスマホの弊害ですね。思春期であり、先天性疾患を気にしていたのもあると思いますが、上手く話せないのとはあまり関係ないと思います。ただ、基本的に卒業までは心身穏やかに過ごせていました。

 

高校生時代

高校受験は中3から塾に通わせてもらい、部活の仲間がいたこと、好きな子の成績がすごくよく謎の対抗心を燃やしていたこともあって、英語国語社会の成績だけは鰻登りに上がり、5科目総合はそんなに高くはないものの一応中堅レベルの高校に行けました。

ただ、この高校は非常に癖の強い高校でした。そこしか成績的に選べなかったというのもありますが。なんと中高一貫校に高校から入ってしまったのです。しかも中学入試を通して入学した人たちは人数が多くて圧倒的に成績がよく、ほぼ全員県内トップの高校に行けるレベルです。実際に内部進学せず受験した人も中学には数人いたそうですが、開成が1人、もう2人は県内トップ校と、すごいレベルの違いでした。同じく中堅校である第一志望の高校を諦め、直前でこちらに渋々変更して入学してきた私とは全く違います。

これは完全に、中学校進学と同じ状況です。こういう状況を嫌う人が多かったために、偏差値が県内中堅レベル高校の中でも低めだったのだと思いますが。入学年度の倍率は1.02倍、受けた中で数人しか落ちていません。

高校に入って早速青春を謳歌しようと色々頑張りましたが、全て空回り。当然です、当時も休日は10時間ポルノとYouTubeに費やし、夜更かしまでしていたのです。しかも人より成長期が遅いですから、本当はもっとよく寝なきゃいけないのに、睡眠の質を悪くした上で1日6時間も寝ていないという、滑稽以上に愚かです。コミュ障は治るどころかいっそう加速し、支障なかった女の子との会話もどんどんおかしくなっていきました。

さらに大きな障壁が現れます。そうです、高校に入学して好きになった子が彼氏持ちでした。共学の中高一貫で想定していなかった最大の落とし穴です。ある種絶望しましたし、誰が付き合っているいないなどは普通何気ない会話の中で知るはずのことなのに、コミュ障発揮しているので周りのコミュニティに入っていけなかったためそれも叶わず、怖がって誰にもアプローチができないという状況に陥りました。しかも、その子に変な言動・行動をしてしまい、同じクラスだったため、クラスでの居場所が危うくなりました。その子は活動的で、クラスでもそれなりに目立って発言拡散力が大きかったためです。

それでもその子含めクラスの皆さんはとても優しかったので一応どうにかなりましたし、行事にもちゃんと参加しました。それどころか行事だけはフルで楽しんでいました。

ただ、2重3重に心理的ショックを被ったため、相変わらず学校は皆勤で部活には入っているものの、スマホ・ネット依存は加速し、授業中にも先生の目を盗みスマホをみるようになりました。病気ですね。しかも、謎に隠すのがうまかったため一度もバレず、指摘され更生する機会もありませんでした。貴重な授業時間さえもそのように過ごし、自習など当然しませんから、成績は悪くなる一方です。特に数学、理科、英語文法は100点満点のテストで4点、2点を常習的に取っていました。それでも、赤ペン公正だらけの課題ノートを毎週欠かさず出せばどの教科も最低評価はつかなかったので、その制度に救われました。高校入学したての頃はそれさえ出していなかったので、その時期が一番進級と卒業が危うかったです。大学生じゃないのに何をやってるんだか(大学生だって1年生春は真面目)。しかも原因はスマホ依存。今の人生どうにかなっているから良いものの、本当に高校留年し、その他失敗を重ねて現在に至っていたら発狂ものでしょう。

と、こんな様子で高2終わりまで過ごしました。受験の方は、もう国公立は無理だということで東京の私文を志望することにし、歴史の勉強だけ全力でしていました。理由は単純で、皆の科目優先順位が低いために相対的に順位が上になれたからです。本当は英語や国語、また数学に力を入れなければいけないし、みんなそうしています。歴史はとりあえず後回しでもどうにかなるものなのです。

あと、単純に物語が好きなようで、YouTube 、アニメと似たようなところが気に入ったようです。英語と国語はボロボロ、現代文だけは地頭で高い点と低い点を交互に取っていました。ただ、高2の時は高校生活に慣れてきたこと、クラスの雰囲気が穏やかなこともあって、主観的には非常に心穏やかで落ち着いた日々を過ごせていました。

ただ、スマホ・ネット依存は加速し、平日部活で疲れて帰ってきてからも平気でポルノに3時間、YouTube1時間費やすようになっていたため、どこか原因のない不安感、倦怠感は続いていました。穏やかというより、もはや何も感じていないレベルだったのだと思います。クラスのみんなも穏やかだったと言っているので学校生活は本当に穏やかだったのでしょうが、私個人はコミュ障のさらに向こう側、依存症患者のような症状が出ていたので、さらに幸福を感じずらくなっていました。人生の大切な時期を何も知らず破壊してきていました。無自覚は恐ろしい。というか、もうその段階まで来ていたらたとえ自覚しても目を背けていたのだと思いますが。

高校三年生になる時期、世界的大事件に巻き込まれ、以前よりさらにひどくなりました。自粛期間の開始です。新型コロナの影響で学校は休校になり、せっかくなじみかけていたクラスに行けず、友達との何気ない会話もできない。そこから、自暴自棄が加速しました。コロナによる自粛期間中、世間でもネット消費者は急激に増え、YouTube、アニメが非常に流行りました。私自身は、当然今までの生活でもひどく依存していたので、勉強しなきゃいけない大事な時期に依存は加速しました。

内容はひどいものです。結局3月頭から6月まで高校にはいかず、ほとんど家の外にも出ませんでした。その間の過ごし方は

食事等その他の時間を除けばこんな感じです。かろうじて睡眠時間は7時間ほどは確保していましたが、体を動かしていない上に毎日鬱のような症状と倦怠感があったので、寝付けない日もありました。総合的にはポルノが一番多いですね。幸福も何もありゃしません。

受験生にとって最大の不安は受験です。勉強しないと漠然とした不安を抱えたままですが、それでも勉強はしない。たまにくる友達のLINEでも、結構勉強しているよという話を聞く。するとまた不安になるが、でも勉強はしない。なぜなら依存症だから。

6月学校明けのテストと模擬試験では、英語、国語は「私文で」中レベル、日本史も思ったよりできないという状況になり、不安は頂点に達しました。焦りはあっても勉強できない、寝つきが悪い。幸せなど全く忘れてしまっているでしょう。元来楽観的な私でしたが、主観的には薬物依存者以上に不安感を持って生きていました。そういう時そのような依存症から抜け出す方法は、今は知っていますし簡単です。ですが、当時は本当に深刻でした。

それでも休校明けにはみんな成績を上げてきているわけですから、いよいよ焦りが行動に代わり、勉強しました。周りが勉強している環境が救いでした。ただ、それでも依存症は治らず、一定期間やめてはちょくちょく再開し、また不安になる。これを繰り返しながら入試に至りました。ポルノはずっと見ていました。オカズ探しの時間が短縮されただけなので、頻度は下がりませんでした。受験についてはまた別途お話ししますが、最終的な受験結果自体は考えられないほど良いものを得られました。

大学1年生〜現在

晴れて大学生になり、今度こそ一から頑張ろうと思いました。勉強の方も意欲があり、友達も彼女も作ろうとしていましたが、まだコロナ禍の只中でした。それどころか感染拡大自体は全盛期でした。大学の授業はほぼ全てがオンライン、お店は夜遅くにはやっておらず、自粛ムードは健在でした。私自身も、「晴れて大学生になったというのに、またこれか」と環境のせいにして何も行動せず、惰性で一、二個サークルに入り、また以前のような依存生活を繰り返していました。更に、大学生になって自由度が増したことが拍車をかけました。オンライン授業は出席しつつ画面を切り替えてYouTubeを見ていたし、対面であった大教室での講義は当然聞きません。ゲームにも依存しました。感覚的な不安感等は、受験もないのでもうあまりありませんでしたが、コミュ障は加速。ポルノ依存も止まらず、おそらくその時は射精障害も引き起こしていただろうと思います。

しかも、高校の時にも決して多くはなかった女の子との関わりが格段に減り、セルフ男子校状態になっていました。クラスという制度は本当にありがたいものだったのです。大学生になったら勝手に出会い爆増して彼女くらいすぐできると思って油断していました。ただでさえハンデがあるのに外見も磨かず外にも出ず、おまけに中学生の頃からずっとネットに依存して殻に閉じこもってきた人間に、誰が魅力を感じるでしょうか。正気ではありません。依存症なので、文字通り正気ではないのですが。

というように現実と理想のギャップに苦しみ、精神的に弱っていました。せっかく大学に進学したというのに、恩恵を全く受けていませんでした。これも結局、気力がないからです。意志が弱いから依存の元を断ち切ることはできず、目標もできない。でも依存症を断ち切らなければずっと無気力のまま。誰にも注意されないし、私が別にこのことを相談もしませんでしたから、治りません。

大学の成績は、オンライン試験を上手く攻略した結果まずまずでした。もっとも、その後も依存症が続き、2年の終わりにかけて下がる一方でしたが。

大学一年生の冬には彼女もできそうでしたが、いいところまでいってもなお踏み込めず何もできませんでした。その後も何度かいろんな女性にアプローチをかけるも、一番いいところまで行ったのは大一の冬の子でした。今ならわかることですが、歩く時に体までくっついていましたから、さっさといかなきゃいけなかったのです。小学生の時のあの早さでの交際経験は何の意味もありませんでした。彼女がいない歴=年齢ではないというプライドと、現実の実力のギャップに苦しみました。

転機

そんな感じで過ごしてきて、2年生の夏、今にも気が狂いそうなくらいにまで追い込まれた時、どういう因縁か、人は不思議なものです。急に頻繁に外出するようになりました。外出中何をしたかの詳細は今は伏せますが、その流れで大学の図書館に行き始め、哲学のコーナーを漁り始めました。また、もともとスマホキンドルアプリを入れていたのですが、そこでライブラリを一瞥したところ、根源的な人生哲学の本を見つけました。

弱った人はスピにハマるというのは本当です。最初に開いた本はスピ系でした。誕生月占い、行動傾向占いなど一切科学的根拠のない迷信の類と、占星術という一応は根拠のありそうな教え、どちらも読みました。それと同時に、おそらく親が入れておいたのでしょう、スマホキンドルアプリにもともとログインしてあったアカウントのライブラリに、いかにも迷信のようなタイトルを付けられた本を見つけ、スピに何の抵抗もなくなっていた(というよりもはや何も考えていなかった)私はすぐに読み始めました。先ほどの人生哲学の本です。最初はありきたりな内容でしたが、ページが進むにつれ画期的で明瞭な哲学、さらにはその哲学の内容そのままに生きる実際の方法まで学びました。同時に衝撃を受けました。今まで知らなければならないことを何一つ知らず生きていたことに気付かされました。読み進めてからは終わるまでとても早かったです。

そこから半年間、その人の本を初め、哲学的な内容、人生啓発系の本をたくさん読み、体系的理解を深めていましたが、大学2年の春休みまでの期間は、なかなか思うようにできませんでした。この頃すでに文献や論文、ネット記事を基に、自分のスマホ・ネットの見過ぎが立派な依存症の一つであることに気づいていました。ポルノについても同様です。それどころかネット上で最も依存性が強く、脳の萎縮、EDなど健康への害もあることを知りました。ヘビースモーカーや酒飲みをバカにしていた私が、なんと彼らと同類どころかむしろ酷かったことに気づき、絶対に辞めると決意していました。

皆さんもそういう場合が多いのではないでしょうか。ヘビースモーカーやパチンコ依存者のことを、お金と健康を失ってまでそれらを消費し続けやめられないでいる、意志の弱い愚か者だと思っている現代人のほとんどは、時間とデータ通信料金を無駄にして、精神をすり減らしていることにさえ気づかないスマホ・ネット依存者なのです。もちろんパチンコやタバコよりはお金もかからないでしょうから、こっちの方がマシだと言いたくもなるでしょう。ただ、自分の意志でこれらをコントロールできないという点で、微塵も違いません。完全な仲間です。

しかし、相変わらず依存症は止まりませんでした。ポルノは一時期若干やめることができましたが、YouTubeは見続け、Twitter、インスタも見過ぎていました。教えにもありますが

「今までは悪いことを悪いことだと思っていなかった分、そこから受けていた悪影響は、そのもの自体から受ける悪影響以上のものは発生しない。しかしひとたびそのものの悪影響に気づいて仕舞えば、今度は心の方がそのことを病むため煩悶が生じ、害が増幅される。すると知らない方がかえって楽であったというような、滑稽以上に哀れなことになりかねない」

しっかり辞めることができなければ、つまり辞めるだけの意志の強さがなければ、理性で色々理解したがために心をより悩ませ煩わせるため、人生をより悪くすることになりかねないのです。私はこうなりました。高3の受験の時と同じくらいの強い不安を抱えるようになりましたが、コロナ禍もある程度終わり対面授業も増えた大学で暗い顔をしたくなく、周りには明るく振る舞っていました。

私の大学の友達は皆賢く、何より自分の人生のことを真剣に考えていました。確かに彼らの中には軽度スマホ依存者と思わしき人もいますし、彼らとて完全に生きているとは言えませんが、当時の私より何倍も努力をしています。今だって真剣に生きています。そういう彼らを見て内心穏やかではなく、将来の話や、何かを頑張っている姿を目にしたり、話が耳に入ると嫉妬の感情が出てきていました。努力家が好きになれませんでした。

これは結局大学2年の冬〜春休みにかけても克服できず、相変わらず迷い続けていました。ですが教えの内容を少しずつ続けていた結果、ある日急に依存症から解放されました。だいぶ時期は遅くなりましたが、今年の7月頃(大学3年)です。本当に急でした。パタっとやめてしまいました。

教えにある程度したがっていただけであり、特別なことはしていません。もちろん、少しずつ見る時間を減らそう、ポルノはやめようという努力をし、他のことをするようにしていましたが、それでもある日急にぶり返すというようなこともありましたし、何よりやめようとする上で苦しみがあった。禁断症状というのでしょう。

 

一切の依存から解放されました。元々酒は飲まないし、スタバ依存(カフェイン)、スイーツ依存もありません。タバコは、唯一私が胸を張って得意だと言える運動を奪ってしまうので、絶対にしていませんでしたし、これからもしません。ということで、最大の汚点であり克服しなければいけなかった、SNS、ネット、ポルノを断つことができました。

自分の意志でこれらの消費をコントロールできるようになってから2週間くらい経った頃でしょうか。それからというもの、気分が常によくなり、身近なことに大きな幸せを感じられるようになりました。それもそうでしょう、長年の依存から解放されたのですから。

ポルノ患者の人たちの意見投稿フォーラムであるYour brain on Porn には、2ヶ月完全にポルノを断っただけで人生が全て好転したと主張する人がいます。その人は気分が良くなっただけでなく、副業を始めて収入が上がり、音楽を作り始め、ブログを始めそれらで成功を収め、良好な関係のパートナーもできたといいます。それほど依存症脱却というのは強いのです。全てにおいて意志の力を十分働かせることができれば、これほど生きやすいものはありません。

私の話に戻りますが、人間関係に悩むことももっと減っていたでしょう。依存症脱却のみでもだいぶ変わりますが、何より根本的問題であった依存症から、時間はかかったものの一気に状況を好転させた哲学的、科学的知見があれば、大袈裟でなく人生の大半の問題は解決していたはずです。現に今ほとんど解決しています。

では、人生をよく生きる、本当に幸福の中で生きるための方法をお教えします。本当はもっと哲学的な内容を先に盛り込んでおきたかったのですが、話が難しいので私もまだしっかりまとめられていない上に、理論的な話、理解に時間がかかる話を先にしても読む気が失せると思ったので後回しにします。

そのような話は大変貴重で、絶対知らなきゃいけないのに誰も納得のいく明確な答えを持ってはいなさそうです。しかしそのような話も、よくわからないうちは話の価値を低く見積もり、真剣に捉えない可能性があります。豚に真珠ってやつです。ですから、別でお話しします。ちょくちょくそういう話を挟むこともありますが、あくまで実践方法の理解を助け、実感を持たせる程度にとどめます。

 

人生に必要な六つの力

さて始めます。まず、人生を生きる上で欠かせないのが、以下の六つの力です。生命力ですね。生命力の多さによって人の持つエネルギーが決定され、そして、六つの力が充実している人こそ、幸せで完全な人生を生きることができます。

体力、胆力、判断力、断行力、精力、能力

幸せとは何か、そもそも人間とは何かといった話は別途します。とりあえずこの六つの力が人生には必要なんだと思っておいてください。

そして、この六つの力のうちどれかを欠かすと、幸福の反対、つまり不幸・不運に陥ることになります。不幸には主なものに三種類あります。人生の三大不幸と呼ばれています。

「病・煩悶(悩み悶える)・貧乏」です。病気になり病を患って幸せな人はいません。あまりにも丈夫すぎて、少しくらいは風邪を引いとかないと生き甲斐がなくなってしまう、という人はいないはず。悩み悶えるような日々を過ごしていたら、精神はすり減るし肉体にも悪影響が及びます。貧乏だと余裕がなくなるし、物理的にも大きく不足を感じながら生きることになります。

この六つの力をどうすれば充実させることができるか、これを説きますが、まず六つの力について手短に解説します。

体力

文字通りです。よく耳にする体力です。基本的な考え方としては、

・80,90歳になってもなお元気に生きられるか(健康な長生きができるか)

・ちょっとのことで体を壊したりヒィヒィ疲れたりしないか

・やたら風邪を引かないか、病原菌に負けないか

という三つです。体力があるか否かは、上記の基準を用いて判断してください。

続いて胆力

胆力はなにも三国志や戦国時代などに出てくる英雄・豪傑の持つ胆力のことではなく、普通人が普通に有している胆力です。つまり、

・人前で必要以上に緊張しないか(演説以外にも話す時、食事をする時等)

・言わなければいけないことを言えるか(躊躇したり恐れたりしないか)

・占いなど、根拠もない(実際には否定されてしまっている)物をやたらに盲信しないか

という基準です。要は、必要以上に恐れたり心配性でなければいいんです。冷や汗が止まらない、震えが止まらなくて見え見え。これは行き過ぎでしょう。緊張は誰でもしますし、一切心拍数を上げるなとはいいません。あとは、異性への告白など、しようと思っていることを普通にできるかということです。ある意味断行力に近い。

占いについては、バーナム効果という心理学上のタネ明かしがすでにされています。その上でなお信じているのであれば、胆力が弱いことの証左です。善良な占い師というのは、運勢を占った上で明確な解決策をくれて、精神的に楽にしてくれます。そうでない占い師がほとんどで、彼らはただ恐怖を煽り、あなたの行動を制限するようなことしか言ってきません。そんなのに踊らされるのでは、人生を満足に生きるなんてできないですよね。

次に判断力

・冷静さを欠いた明らかに間違った判断をしないか

・周りが見えなくなるようなことがないか

・今何をしなければならないか、優先順位をつけられるか

だいたいこんな感じです。上記に当てはまらなければ問題ありません。結果オーライなんて言葉もあるし、人生むしろそれで良いことの方が多いですが、判断力がいつも欠けていたんじゃ話にならないのもまた事実。足りないのはまずいです。

次に断行力

・今やらなければいけないとわかっている事をしっかりやれるか(優先順位をつけた通りに、それを実行できるか)

・自分の意志を不用意に、簡単に曲げず、やり遂げられるか

途中で諦めない力という感じです。これは現代人は特にできていないんじゃないでしょうか。

次に精力

精力には精神的精力と肉体的精力とがあります。

精神的

・やりたいことをすぐ行動に移せるほどの気力があるか

・少しくらい思い通りにいかないことがあってもへこたれないか

肉体的

・活発に動けるか

・下半身が通常通り働くか、満足のいく性活ができるか

不安要素が多いですね。特に肉体面。現代20代男性のEDが増えています。うんともすんとも言わないというレベルでなくとも、ポルノの脳内再生をしないと目の前に女の子がいても反応しない、持続時間が明らかに短い、自分で触らないと使えない、のであれば立派な若年性EDです。ポルノに慣れている人のほとんどはこれでしょう。男性の場合特に、本番が未経験で上記症状に気づけていない人が大半の可能性がありますが。

最後に能力

・一般人が普通にできることができるか(体力テストなら平均or中央値、手荷物の整理)

・時間をかければ人並み以上に物事を習得できるか(例えば英検・TOEICなど、三級以上・平均以上取れるか)

()は大体の目安です。手荷物の整理が全然できない人、ロッカーや机上がやたら汚い人は、その能力が足りていないです。また、英語はちょっと勉強すれば0スタートでも三級、頑張れば二級は普通に取れます。三級は義務教育終了程度なので。

はい、以上六つです。私も全部はまだ満たしていません。何かしら不足しています。これ全部完璧に満たしていたぞという人は、まずこの記事を見ないでしょう。必要ないのですから。おそらく、この六つの力、タイミングによってはあるけどそうでない時の方が多いとか、どんなに調子良くても全部満ちていることはないな、という人しかいないはずです。なんなら全く足りていないという人もいると思います。

落ち込む必要はありません、現代になんの用意もなく生きていたらこうなるのが当たり前です。私だって偉そうなことは言えません。だから日々真剣に生きる必要があるのです。でなければ幸福に生きることは、夢物語になってしまいます。六つの力の解説は以上です。

感応性能

六つの力を充実させることが、幸福を感じる人生に生きる基礎だということは前に述べました。

この六つの力を充実させるには、感応性能強くしなければなりません。専門用語で言うとSuggestibilitat。難しいように聞こえますが、要は心の持つ作用のうち、「感受性」と「反応性」のことです。もっとわかりやすく言うと、文字通り「何かを感ずる、心で受け取る」作用と、「それに応じて心が反応すること、心のリアクション」です。

  1. 好きな人が熱い目線を送ってくる→視覚で捉える→心がそれを受け取る(感受)→嬉しい・恥ずかしいと思い(感受)、心拍が上がる・顔が赤くなる(反応)

上記のような感じです。厳密には違いますが、なんのことはない普通の心の作用です。

現代心理学においてはどうも二つの作用は別物として切り分けて考えられているようですが、この二つの働きは一連の流れで起こります。両者は一体のものと捉えるのが正しいです。

難しい話もできるだけ簡単にします。大事なのは実際の方法ですから。次に行きます。

感応性能の強化

感応性能を強くすることが方法なのですから、今からその方法をお伝えします。強くする方法は以下の三つ(基本の三つとでも言いましょうか)

①観念要素の更改(潜在意識の書き換えに近い

②積極観念の養成(日々の心がけ

③神経反射の調節(度がすぎる反応の調整、抑制

この三つです。この三つの中にも方法がいくつかあったりしますが、それは後に説明します。一つ気になると思いますが、これ③抑制と書いてあります。感応性能を強化するのに、抑制って矛盾してないかと思うかもしれません。

感応性能を強化するということは、すなわち感受作用、反応作用を適切にし、その働きを本来人間が持つ水準に引き上げ、十分働くようにすることです。決して感受性が強すぎること、あるいは心で受け取った物事に対する過剰反応を放置することではありません。適切な反応を示すようにすることが、感応「性能を強化する」ことであって、そのためには過剰なものは抑制しなきゃいけません。抑制することも「強化」のうちです。理解できたと思いますので、①観念要素の更改から、以下順に説明します。

観念要素の更改

観念要素とは何か、どういうことをするのか、総論的な部分について手短にお伝えします。

観念要素とは、思考の元となる種のようなものです。そして、思考の元になるということは、言葉・行動の大元とも言えます。思考→言葉・行動というのが基本的な傾向ですから。もちろん、そうでない場合もありますがそこについては後ほど解説いたします。とりあえず今は、思考の元となる要素だということだけ頭に入れてください。

なんとなく、潜在意識に似ていることにお気づきでしょうか。両者の違いはよくわかっていませんが、潜在意識は意識というか、人間の持つ心のエネルギーのようなモノだと言われています。そこにはマイナスのものとプラスのものがあり、マイナスの方からはマイナスの感情・考え方がつくられ、それが元となってネガティブ思考・消極思考を作り出します。プラスの方からは積極的な思考、前向きな思考が作られます。

寄り道しますが、潜在意識と対をなして語られる顕在意識についても少しお話しします。顕在意識と潜在意識は別のものではありません。全く同じものでもありません。ただ両者は一体のものです。潜在意識には様々な作用があり、その働き、占有率は顕在意識よりもずっと大きなものです。氷山で考えればわかりやすいです。氷山の一角部分が顕在意識で、海に沈んでいる見えない氷の部分が潜在意識です。潜在意識はコントロールできません。ですが、顕在意識からの影響を普段から受けています。別物ではなく、一体のものなのです。

話を潜在意識の方に戻します。人生がうまくいっていない人、例えば病気をいつも気にして神経質になっている人、仕事が忙しく感じてストレスが溜まっている人、臆病で失敗を恐れるため、チャンスを逃す人、人前で話す時やたら緊張して汗や震えが止まらなくなる人などは、この潜在意識にマイナスの思考を作り出す元となるエネルギーが溜まっている状態です。

というか本来潜在意識は人間だけに与えられた素晴らしい潜在的エネルギーなので、それ自体が悪くなるということはないと思われます。むしろ、その潜在意識の働きを妨げるこれらマイナス思考の元となるエネルギーが、潜在意識に蓋をして押さえ込んでしまっているという状態が正しいと考えるべきです。

その潜在意識がマイナスのもので満ちている(もしくは上に覆い被さって蓋をしている)状態を変えていく必要があります。それが観念要素の更改という方法です。たくさん本を読んで気づいたのですが、観念要素の更改≒潜在意識の書き換えです。厳密には違っても、内容がほぼ同じなのでそのように考えていただいて差し支えないです。

ただ、潜在意識の書き換えの方法は数パターンありますが、そのどれかしか書かれていない、あるいは断片的で、本来組み合わせてするべきものなのにそれがまとめられていない、そういう本が多い印象を受けました。これから教える方法は三つありますが、三つで一つの方法だと心得てください。

更改方法

更改方法は以下の三つ、連想暗示・断定暗示・命令暗示です。ここで、暗示という言葉がでてきました。この暗示というのは何も難しいことではありません。自分の心に何かしらの影響を与え、思考、ひいては言葉・行動を作るものです。

暗示には二種類あります。他面暗示自己暗示です。他面暗示とは、外界から与えられる暗示です。自己暗示は、自分が意図的に、あるいは意図せず心に与える暗示です。具体例を出すと、音楽の歌詞と他人からの言葉は他面暗示、自分の言動・行動、思考は全て自己暗示になります。また、それぞれにマイナスの暗示とプラスの暗示があります。今回のこの観念要素の更改では、プラスの自己暗示を与えます。

それぞれ解説していきます。

連想暗示

端的に方法を言うと

「夜、また寝る直前には汚いこと、悪いことは一切考えず、代わりに綺麗な気持ちになれること、感謝すること、楽しいことを考える」

これだけです。ではなぜ夜、寝る直前なのか。

夜は人間にとっては活動を休ませる時間です。夜型人間とかたまにいますが、あれはよほどの先天的才能を持っているわけでもない限り、ただスマホや漫画、深夜スナックの発するドーパミンに脳を毒された人の言い訳です。一般的な人間の活動時間は昼です、断言します。そして、昼の活動の疲れを癒す時間が夜です。夜になるとどんな人でも無意識に体も心も、思考作用もできるだけ休ませようとします。そして、すでに脳が一日通してしてきた判断、思考等で消費したエネルギーを回復させようとしているのです。その究極が睡眠です。

ここからが重要です。疲れた状態の脳で考えたことは、脳の処理がゆるくなります。脳自体の機能が休憩に向かっているわけですから、脳内で処理がゆるくなり、ダイレクトに心の深層部に向かっていきます。言い方を変えると、考えたことがすぐ潜在意識に入り込むということです。顕在意識で考えたことは潜在意識に多少なりとも影響を与えます。もちろん、言葉も行動も同じです。夜になると顕在意識で考えたことが潜在意識に与える影響がより大きくなるのです。

これだけです。できるだけ夜、寝る間際には、最初はあまり思っていなくてもいいですから、周りへの感謝を思ったり口に出してみる。考えるだけで笑顔になれること、楽しくなることを考える。今目標や成し遂げたいことがあれば、それが既に成っている姿を思う。

さてみなさん現在はどうでしょうか。夜になっても昼間の悩み事を思い出し、時には腹を立てたり悔しがったり、そういう状態でいる方が多いのではないでしょうか。これでは、より状況を悪くするだけです。特に寝る前は心身を休める大切な時なんですから、そんなことをグルグル考えていたら、まずまともに寝れません。良質な睡眠は良い明日を作り上げるというのは常識でしょう。人生をよくするとか壮大な話に興味がなくとも、夜に消極的なこと、良くないこと、疲れることは考えさせないで良いのです。

まぁ、疲れている時というのは大抵もう判断力も何もかも鈍っているので、放っておいたらそういう暗い方面のことばかり考えがちです。だからこそ、このように原理を知って、対処法を実践する必要があるのです。

ちなみに、本当は寝る前なんてのは何も考えずに、寝床に入って気づいたら朝になってた、くらいがいいです。寝る時に考え事する必要は別にありませんから、寝る時は寝ればいいんです。しかし、大抵の人はしょうもないことを夜にグダグダと考える癖がついていますから、まずその悪習慣を取り除くために、思考の振り替えを行うのです。悪い方汚い方から、綺麗な方へと思考の振り替えを行っていると、いつの日か必ず寝る前に何も考えずすぐに寝付けるようになります。私は日々充実しているからか、いつも体感5秒後には寝てます。本当に何も考えていない。ベッドに入った瞬間トランス状態になります。もはや寝る前から寝ているような、そんなレベルです。夜に悪いことも綺麗なことも何も考えなくなった、という状態は、既に半分は観念要素の更改が終わったようなものです。

以上です、いかがだったでしょうか。今の自分と照らし合わせて、もし消極的なことを考えたり悩んだりしていたら、寝る前だけはできるだけ綺麗なことを考えるようにしてください。

命令暗示

次に、命令暗示という方法です。これは言葉と鏡を使います。早速具体的な方法をお教えします。

まず、上半身が全部映るくらいの鏡を用意する、あるいは自分で鏡の前に立ってください。そして、その鏡に映る自分の眉間を見ながら、自分のなりたい状態を言います。例えば、「お前はもっと元気になる」とか、「お前は人前で話すのが好きになる」とか、「お前は臆病でなくなり、勇敢になる」とかです。この方法を説いている本人は、「お前は信念が強くなる」と、この方法をやり始めてから毎日必ず唱えたと言います。

方法はこれだけ、単純です。鏡は全身鏡でも、顔が全部映るくらいの鏡でも構いません、眉間を見ながら言葉にして言うだけです。

注意点があるのでお伝えします。

声は大きくなくて良い、耳に聞こえる呟きくらいでちょうどいい

寝る前または夜に行うと望ましい(任意、日中も言えるタイミングに言って良い)

一回につき一つの事柄にし、また一回言うタイミングで何度も復唱しないこと、二度も三度も繰り返さない

一度言い始めたことが実現したと実感するまで、命令事項を変えないこと、同一事項を言い続けること

主語は基本「お前」、かつ、命令口調

以上5点です。③についてですが、一回鏡の前で言うタイミングに、別の事項を唱えたりしない、また、鏡の前で何度も言う必要はないということです。一回につき一事項を、一回だけ唱えればいいのです。②については割と任意です。一日中、どこかでタイミングを見つけて実行して構いません。次の断定暗示法との関係上、寝る直前に一回は言っておいた方がいいのは間違いないです。

④についてですが、例えば人前で話すのが苦手だと感じてそれを治したい時、「お前は人前で話すのが好きになる」と言うと思います。それを言うことに決めたら、その事項が現実で実感できるまでは夜に鏡の前で言うことを変更しないことです。「人前で話すのが苦じゃなくなってきた、むしろ楽しいぞ」となってきたら別のものに変更して構いません。それまでは変えないで同じ命令をし続けましょう。人によっては1ヶ月から3ヶ月で実感できるようになります。それと、一度実感できるようになると、次の命令事項が実感できるようになるまでが早くなります。

⑤については、鏡の向こうの自分なのですから、お前と言うのが正しいです。また、命令口調にしておきましょう。お願い事をするときのように、「どうか〜」といった口調で言うべきではないです。あくまで自らが主体的に変えるという意識を保ちましょう。

もう一つ注意点というか、これは意外と見落としがちなのですが、言い方には気をつける必要があります。例えば勉強ができるようになりたい、成績を上げたいという願望があったとします。そういう各論的事項の場合、「お前は成績が上がる」とか、「勉強ができるようになる」とか、このような唱え方をしてしまうことが多いです。現に、このような命令事項を今日から実践しようと思った方は多いのではないでしょうか。

しかし、これでは実現しません。なぜなら、成績が上がるというのは結果の話だからです。「お前はワールドカップ優勝できる」とかいうのと同じレベルで、何をもってそこまで辿り着くのかがあまりに抽象的すぎます。

こういう場合は、「お前は勉強が好きになる」といいましょう。もっと具体的に、苦手科目の名前を入れると良いです。全部このようにしてください。病気に関してもそうです。「病気が治る」ではなく、「病気を気にしなくなる」こうします。病を治したいのはなぜか。痛いからとか、苦しいからとか、なんとなく気分が上がらないからとか。色々理由はあるでしょうが、なんとなく足枷がついたような感じがするからだと思います。ですから、その足枷のように感じている病を気にしなければ、病は本人にとってはなくなったも同然です。

病を患っている人が、病のことを何も気にしていなかったら、他人ももはや気づかないのではないでしょうか。顔が青白いとか、アトピーであるという場合は別ですが、潰瘍性大腸炎とか、インフルエンザでもコロナでも、本人が気にしていなきゃ、客観的にも主観的にも病の存在はないのと同じです。病からは離れてあげる。病を心で思っていない時が最も人の回復力が旺盛なのです。病は忘れることによって治る。病の忘れ方は、上記の通りです。

もう一つ、イケメンになる、可愛くなる、美人になるとかそういうのも少しずれてます。まだ、「モテるようになる」じゃないだけマシですが。そもそも顔は高校生2年生以下でなきゃ、整形しないと変わりません。いくら唱えたところで、少しずつ顔の造形が変わっていくこともないでしょう。

それに、顔が良くなりたいというのは、他人からの印象を少しでも良くして好かれたいから、モテたいからだと思います。で、モテるようになる、というのも、モテたい理由=人生を楽しく生きたいからとかそんなところでしょう。まぁ、モテたい、というのも結局各論的な結果の話なので、命令暗示としては適切でない。

そのような命令事項が思い浮かんだ人は、「お前はお前自身のことを好きになる」とか、「お前は自分に自信を持てる」と言いましょう。結局、自分で自分を好きでいる人が最も魅力的です。別に「ありのままの自分」を押し付けろというのではありません。日々成長への投資は惜しまずにすべきですし、意地っ張りにならないで良いです。自分のことが本当に好きになれたら、磨かずにはいられなくなります。

一歩ずつ確実に成長していく自分、仮に停滞期にあると感じても諦めずに進んでいく自分、愛おしいですよね。イケメンになりたい、可愛くなりたいという人は、まだ心の底から自分を認められていない。なら、まず自分で自分を認めてあげればいい。無条件に認められたなら、もうそこからは日々自分を磨き始めます。放っておけないでしょう、こんな可愛い自分を。向上させずにはいられない。

大体こんな感じです。近年は特に容姿で悩む人は多いと思います。確かに、容姿というのは、内面の一番外側です。「だらしない体、終始無愛想な顔、死んだ目」でいる人の中身は、良いと想定する方が難しい。これは仕方ない本能ですから。かといって外見だけを繕っていても、わかる人にはすぐわかってしまいます。この人の内面はこうだ、と、非言語的ではありますが、無意識に感じ取れてしまうようです。直感力の優れた人は本当にすごいですよ。

とにかく、外見は中身から作られます。だから、「今の外見」を気にする必要はありません。その外見は、「昨日までの自分の内面」が作り上げてきたものなので。昨日までの自分を含め、今の自分を好きになれば良いのです。しかし、自分を好きになれなければ、自分を適切に向上させようとは思えない。だからこそ、このような自己暗示で自分を認めてやる必要があります。

自分というものがどういうものか正しく認識する。あなたという存在は、世界80億人に一人であり、かつ宇宙開闢以来138億年に一人なのです。1000年に一度どころではありません。最も1000年に一度と言われているあの女優さんも、皆さんと同様ですが。逆にいうと、人それぞれの価値、本来持つ力は本当に皆同じなのです。常に内面を磨くように。そのための方法を教えています。

話を戻しましょう。全てを通して真剣であるべきです。適当に別のことを考えながら言うのではなく、唱えている時はしっかり眉間を見て、他のことを考えず集中しましょう

以上です。これを次の断定暗示法と組み合わせて実践することで、なりたい自分になれます。

断定暗示

断定暗示は、命令暗示と対をなすような関係にあり、二つで一つのセットでより強力な効果を発揮します。以下が実践の方法です。

時間帯は朝一です。目覚めた直後に、昨日鏡の前でした命令暗示の内容をそのまま、完了形にして言います。例えば、先述した人前で話すことであれば、「私は、人前で話すのが好きになった」となります。

先ほどの命令暗示と違うのは、鏡を使っても使わなくても構わない、完了形であるという点です。起きてすぐ顔を洗いに行くのは早起きのコツとして一般的に知られているので、鏡を使うのでも構いません。その場合は、主語は「お前」にしましょう。鏡を使わない場合は、上記の通り主語は「私」です。

これは起床直後に何度言っても構いません。鏡を見ながら連続で10回言ってもいいですし、午前中折あるごとにひたすら言っても構いません。ただ、命令暗示同様そのことを言う時は真剣に言いましょう。

まとめ

観念要素の更改は感応性能の強化のうちの一つで、主に自己暗示を用いることで、俗にいう潜在意識を掃除・改善していきます。更改法は①連想暗示、②命令暗示、③断定暗示の三つです。

①連想暗示は夜寝る前に綺麗なことを考える、最終的には何も考え事をすることなくすぐ寝付けるようになるようにする。②命令暗示は夜寝る前、また日中できる時にやる。ただしその際は二度も三度もせず、一回一事項に限る。そして、一つの命令事項が実現したと実感するまでは変えないようにすること。③断定暗示は夜に唱えた事項を、起床直後に完了形で言うこと。鏡を用いても用いなくてもよく、一度に何度繰り返しても構わない。

以上です。この三つを習慣化し、毎日やってください。どれも特別な労力を要しません。本来の正しい生き方をするために必要なステップなのですから。あってはならないもの・習慣は、なきゃならないものに淘汰されます。最初は慣れなくても、すぐ生活の一部として溶け込みます。

これから先に伝える実践方法の全てに言えることですが、修行のようなものではありません。教えの本人が言っていますが、生活の一部として簡単に取り入れられます。特に①連想暗示なんかは、悪い習慣を持っている人なら良い習慣に振り替えるだけの話です。非常に単純で、簡単なことです。それゆえに人生をよく生きるなんていうたいそうなテーマの割には、実践方法がしょぼすぎる、こんなので本当に効果があるのかと疑う気持ちが発生しがちです。ですが、本当にこれだけですし、例え難しい方法や、わかりにくい方法があっても、これより効果のあるものはありません。ただ信じて、続けるだけです。

真理は足元にあります。難しいことばかり想定して、高遠な方向ばかり探そうとすると、灯台下暗しという状況に陥ります。だから、私を含めこんなにも簡単な方法を知らないで生きていた。人生は難しいのではない、むしろ非常に易しいものだ、これほど生きやすい生物はいないぞと、本人がおっしゃっています。本当にその通りです。これを読み、方法を知った以上は、理論的な部分は二の次で構いません。とにかく実践してください。では次の説明に移ります。

 

積極観念の養成

こちらは、先ほどの方法より少し難しいです。と言うのも、この方法は、先ほどの観念要素の更改が前提となっている節があると感じました。そもそも観念要素、俗にいう潜在意識に悪いもの、消極的なもの、マイナスなものばかりあったら、以下の方法はほとんど意味をなしません。というか、やろうとしてもなかなか思うようにはいかないのです。

要は日常の心がけのようなものなのです。日常の心がけ自体は今から伝えるもの以外にも皆さん何度も目にしたことはあると思います。こうすればストレスなく生きられるよとか、これはやらない方がいいんだなとか。そう言うのはわかった上でできないからこんなにも困っている人が多いのです。最初は思うようにスルスルとはできないかもしれません。

ただ、できないからと言って諦める必要はありませんし、意外とできるかもしれません。少しずつやっていけばいいのです。全てに言えることですが、「あ、今できてなかった、しくじった。なぜこんなことができないのだ、クソ」とか思う必要はありません。できていなかったことに気づいたら、すぐまた実践すればいいだけです。試みを捨てないでください、続けてください。それでは説明を始めます。

養成方法

方法は以下の五つです。

①内省検討②他面暗示の再考(暗示の分析)③対人精神態度の積極化(交人態度)④後悔・懊悩・心配の三禁(苦労厳禁)⑤本心良心に従う(正義の実行)

()内は本人の名付けた方法名です。原文が気になる方はそちらもご覧ください。それでは①から順に解説します。

①内省検討

内省検討について説明していきます。内省検討は文字通り、「自分の心の状態を客観的に観察し、その状態がどういうものか検討する」ことです。

具体例をあげましょう。例えば、朝起きて支度をして出かけ、電車に乗ったとします。そこで、席が空いたので座っていたところ、二駅ほど進んだところでお年寄りの方が前にきました。その際、そのお年寄りに席を譲る時、躊躇の気持ちがあったり譲れなかったら×、思ったことをすぐ行動に移し、譲ることができたら○という感じです。

もちろん、あまりに疲れていた場合、自分も体が悪かったり、あまり健康ではないという場合は別です。席を譲ったか否かということ自体に問題はありません。あくまで、自分の心の状態が積極的であったか消極であったかを検討するのです。

結果に至るまでの自分の行動と、そこに付随する思考というものが、常にプラスであったかそうでないか、都度自分の心を見つめることで、だんだん消極的な気持ちがわかるようになります。分別をつけられるようにならないと、積極的な精神状態というのを自覚できません。だからこそ常に検討する必要があるのです。

具体例をもう一つあげましょう。これから生徒会長立候補の声明文を大勢の生徒の前で演説しなければならないという時、「嫌だな、こんな大勢の前で話すなんて。失敗したらどうしよう、笑われないかな、その時点でもう誰も投票してくれないんじゃ。」とか思ったら、これは消極的な精神状態ということです。そういう時、すぐ内省し、「この今の考え方は消極的だ。」というように、心の状態を検討します。その後、「そもそも失敗すること前提に考えている。これはよくない。生徒会長になれるかどうかは今はいい、こうやって立候補して大勢の前で話すことを選択した勇敢な自分の気持ちを尊重しよう。」と積極的な思考に振り替える。これが内省検討の実際の方法です。

方法としての解説はこれで終わりにしますが、少し「積極」の簡単な注釈をします。これについてしっかり話そうと思ったらとても長くなって大変なので、哲学的思索の方でお伝えします。

積極的とは

先ほどの二個目の例を読んで、少し?と思った方もいるかもしれません。こういう場合の積極的精神状態と言ったら、「なんでこんな弱気になってるんだ、弱気ではだめだ。絶対に生徒会長になる。演説は絶対に成功する、うまくいくんだ」というのを思い浮かべる人の方が多いでしょう。絶対に負けまいとする気持ち、これは確かに積極的ではありますが、同時に消極を必死に打ち消そうとするもので、相対的です。大抵の人のいうポジティブ思考といえばこれです。「大丈夫だ、絶対大丈夫だ」このように言い聞かせるのは、積極ではあっても相対的です。消極の対をなすものとしての積極的精神状態を表すのです。

本当の積極的精神状態というのは、積極的も消極的もない、今自分のやっていること、立たされた状態に関係なく前向きに、とでもいうのでしょうか。全肯定する、というのとも少し異なります。疑いを少しも挟まないから、あるもないもない、肯定することも否定することもない、そういう状態です。

これはなかなか言葉で表すのは難しいです。否定があれば、肯定がある。裏を返せば、肯定するような状態ということは、どこかで否定が発生する余地があるのです。絶対的で疑いを挟む余地もなければ、肯定するという気持ちが発生しません。要は、消極積極、マイナスプラス、否定肯定の二元論ではないということです。こういうのを絶対的積極精神状態と言います。

例えば、皆さんすぐ寝付けるかは別として、毎日必ず寝ているでしょう。寝ている時というのは、もはや死んでいる状態と同じです。仮にそのまま死んでも何も気づきません。でも誰も死ぬとは思っていません。だから、毎晩遺言を書いてから寝床に入る人はいない。そもそも死ぬかもしれないという思いがあったら、迂闊に熟睡できないでしょう。

こういう時、「今日寝たら死ぬだろうか。昨日はとりあえず寝て起きたから今日まで生きることができたけど、今日の夜はついに死んで明日は来ないんじゃないか。いやいや、何を弱気になっているんだ。いつも寝ているけど死んだことはない、今日だって大丈夫なはずだ、絶対寝ても明日がくるさ!そうだ今は特に、暗いこと考えたらいけないんだったな、もう寝よう」なんて思う人はいないはず。しかし、皆さんが例えば何かに挑戦するとき、大一番の舞台に立った時には、大抵こんな感じに考えて、これこそポジティブ思考だと思ってしまう。

別に相対的積極思考がダメなものだなんていうつもりはありません。消極的なことばかり思い浮かべていた人からしたら、そもそも大きな進歩です。それに、寝ることと人前で喋ることは違う、好きな異性に告白するのとは違うじゃないかという人が大半ですし、私だって前のような気持ちになれることの方がずっと少ないです。風邪を引いて少し弱気になった時にも、弱気を打ち消そうと、「心配しない、絶対すぐ治るよ」と思うことがあります。

ただ、寝ることと大一番の舞台に立つこと、考えてみれば大きな違いはありません。よく考えてみたら、毎晩一定時間意識がなくて、その間起こったことは目が覚めなければ一生気づくことはない。こんな状態になる方が、捉え方によってはよほど恐ろしいことだとは思いませんか。もちろん本当は恐ろしくもなんともありゃしません。ただ、死となんら変わらない状態を一定時間毎日作っているというのもまた事実です。人生の大一番の舞台なんてのは、失敗しても大抵死にはしませんが、寝る方は仮に「失敗」したとしたら、意識を失っている最中にこの世とお別れすることになる。すると、寝る方が他の人生行事の何十倍も死ぬ確率が高く、恐ろしいということになります。大一番の舞台で失敗しても、そこからまた落ち込まず頑張れば盛り返すこともありますが、寝ている時にスッと死んじゃったらもはや何も盛り返すこともない。人生自体がなくなるわけですから。

要は捉え方によるのです。ほとんどの人は、寝ること自体を、「死ぬかも」なんて消極的に考えない習慣がついています。もちろん寝る前にグダグダ考える癖はあるかもしれませんが、そういう人も「寝ること自体」は怖がっていないはずです。他のことは習慣的に「できないかも」とか、「これはひょっとするとあかんこともあるのでは」とか消極的に考える癖がついている。ここからが大事です。そういう癖を内省し検討し、都度その思考パターンを是正することが、人生をよくする非常に効果的な方法の一つなのです。

この内省検討をずっとやっていると、自分の心の状態がわかってきます。全容がわかるなんて言いません。わかるかもしれませんが、特に理性なんてのは日々変わっていきますから、完全にわかったと思ってもまたわからない。これの連続です。内省検討の不断の実行こそ、消極からの脱却、ひいては消極積極二元論からの脱却の近道であり、絶対積極を理解することにつながるのです。

②他面暗示の再考(暗示の分析)

この方法は、暗示のうち主に他面暗示に対する対処法です。マイナスの他面暗示を拒否する、というのが大まかな表現です。暗示については先ほど観念要素の更改の際に少し説明した通り、他面暗示と自己暗示があります。自己暗示については観念要素の更改である程度コントロールできるようになり、ネガティブな口癖等によるマイナスな自己暗示をすることは減っていきます。

他面暗示についてはそうはいきません。なんせ、目に入るものも耳に入るものも全て他面暗示です。他人の行動、声のトーン、目つき、態度等も全て他面暗示になります。イメージがつきにくいかと思うので、具体例をいくつか出します。

他面暗示で代表的なのが、テレビ・スマホからの情報、とりわけマスコミです。ニュースの類は全て他面暗示になります。情報を頭に入れているだけじゃないかと思われるかもしれませんが、それが他面暗示なのです。そのニュースの内容がネガティブなものなら、少なからずネガティブな影響を受けますし、ポジティブなら気分もよくなります。

次に、人の態度です。小学生の時を思い返しても大人の時でもどちらでも構いませんが、普通に異性に話しかけようとします。すると、なぜかとても顔を赤くされ、照れて顔を背けられたとしましょう。そこまででなくても、少し相手が下手に出るようになったり、非常に快く接してくれるとします。同性の場合でも、すぐ意気投合でき、好かれる。そういうことが多いと、「自分が人に話しかけると、喜ばれるか、嬉しそうに照れられる。つまり自分は魅力的なんだ」という思考になり、人と話す際には喜び、楽しさ、快さを感じやすくなります。これが他面暗示の積み重ねです。

この人は、「自分が人に話しかければ相手が喜びを感じる、そしてそれを見て自分も嬉しくなる。人と関わること、話すことはなんて楽しいんだ、積極的に話しかけよう」とこう思うようになります。子供の頃からそういうのが多かったらなおさらです。

どこかしらで異なる反応、例えば非常に悪い顔をされたり、ぶっきらぼうな返事をされることがない限り、この人はずっとこの思考回路です。そして、人と話すことを楽しめる思考回路になっているので、自然と交友関係は広まり、人の多く集まる場所に行くようになります。そして、集団での立ち回りを自然に理解し、いつしか集団の中心人物になる。魅力的な人というのはこういう場合が多いです。

今の例えは良い方ですが、おそらく逆の人が多いはずです。こんな反応をされる人は一握り。でなければ頻繁に顔を赤くされることはありません。後天的に人を惹きつける魅力を得た人もいるとは思いますが、少ないです。そういう人ばかりなら、今頃憎しみや恐れなどのマイナス感情は社会から消え去っているでしょう。他面暗示がどういうものか、皆さんの体験に当てはめてみてください。思い出したくない場合は構いません、とりあえずイメージが掴めたと思います。

大事なことに気づいたと思います。マスコミ以外にも、多数の情報がスマホに流れてきます。そして、本当に必要な情報は一握り。そして、人の態度等を通した他面的な暗示は、必ずしも良いものばかりではない。だからこそ、「受けた他面暗示を再考し、それを自分の中に受け入れていいものなのかを判断し、消極的でマイナスなものの場合はシャットアウトする」必要があるのです。

具体的な対処法は以下の二つ

①目にする必要がなく、かつ目にすると害のある情報はそもそも近づかない、見ない

②それでも生きている以上他面暗示には絶えず触れるので、その他面暗示がどういうものかを検討し、不用意に受け取らない。打ち消すか、考えないかして受け流す

①は簡単です。ただそういうのに触れなきゃいい。現代なら新聞を取る必要はあまりないし、テレビはもちろんネットニュース、SNSは開かなきゃいい。とはいえ、スマホに依存している場合、もっと正確にいうとSNSをみて情報に触れることで得られるドーパミンに依存している場合は、これをやめようとしてもやめられないことが多いです。現に私もそうでしたから。

どう考えても人生にいらない、関係のない情報でも、中毒になっているのです。芸能人のスキャンダルニュース、暴露話、何かを失敗しただの、不正が行われているだの。そういう情報を見るとドーパミンが発されるように人間の脳はできていますが、悪い暗示を受け続けただけです。心は荒んでいく一方。少なくとも絶対によくはなりません。アンチコメは見るだけで悪い他面暗示を受けます。コメント機能を考えた人は、それも計算済みなのです。

ニュースは必要だという反論が来そうですが、天気予報は今時天気アプリで見ればいいし、世間で何が起こってるかなんて真剣かつ建設的な議論をする人はいないでしょう。そういうのを仲間内で話しているとしたら、大抵上記のようなくだらないものです。政治も、くだらないうちに入ります。建設的な情報は必然的に入ってくるし、とにかく見る必要はどこにもないのです。唯一必要があるとしたら、天災やテロ、大きな事故の際の情報収集です。津波や倒壊、噴火の塵については、どこにくるかなどの情報は死活問題ですから。食料調達でも大事になりますから、そういう場合は必要です。逆にこういう場合以外は一切入りません。

少し話がズレますが、政治家の不正を必要な情報だと考えている人は多いです。そして、それに対し怒りを表明することが、まるで国民の義務だと言わんばかりに、多数の人がSNSで政治家を叩くコメントをしています。しかし、あなたに何が変えられるでしょうか。現実問題ネットで叩いたところで、せいぜいその政治家は多額の退職金を貰って役職を降りるだけです。そして、その人が辞任したって一向に暮らしは改善されない。国は相変わらずどこかのポチ。しかも一方はこっちのポチで、もう一方はあっちのポチというように、誰も自分の意思で動けていません。最初から自分の意思で動くつもりもなかったのかもしれませんが。とにかく、政治家上層部まで、この他面暗示に引っかかりまくっているのですから、そんな彼らを批判したところで状況は何も変わりません。

あなたがもし、本当に現状を変えたいと思うなら、一人一人が人生に自覚を持って、政治家でもなんでも立候補すればいいのです。政治家でなくとも、本来一社会人として生きていくためには色々と人間として完全に生きられるような自覚を持っている必要があります。そんなのを持っている人が日本人に、いや世界にいったいどれほどいるでしょうか。政党は特にそうです。降ろしても現状は変わらずひどくなるだけですから、そもそも彼らに頼らなきゃいい。一人一人がのびのびと生きられる力を最初から持っているのですから、その力を妨げるようなことはしなければいいのです。

 

少なくともSNSやネットニュース等で政治家のスキャンダルを追って、情報のドーパミンの虜になり、挙げ句の果てにコメントを見て二重にも三重にも悪い暗示を受け、怒ってコメントしたりお気持ち表明をしたりするのは、人生の力を弱めるだけです。本日この瞬間からやめましょう。現状を変えるには、一人一人が他面暗示を克服するのが一番です。

以上を踏まえて、②の方法についてです。仮にSNSを不必要に見ず、テレビもニュースも全然見なくなったとしても、外に出れば他面暗示は至る所にあります。あなたが流す、あるいは店で流れている曲でさえ、他面暗示なのです。それらの暗示を避けるわけにはいきません。そういう場合は、その暗示が悪いものか良いものか、ネガティブかポジティブかを判断し、もしネガティブならもうそのことは考えない。考えまいとすると考えてしまうので、手放す。完全に手放してそれで終わり、ができなければ、代わりに観念要素の更改で習ったような暗示を与えてやればいいのです。鏡がなくても、つぶやきによる暗示は非常に効果を発揮します。

何か人の相談事を聞く時、人から悪い態度を取られた時、そういう時は悲しくなったり、憤慨したりします。その前に、相談事を聞く時の自分の心の持ち方を切り替えて、心を前のめりにしないことです。距離をおけばいいのです。だからといって、相談事には耳を貸すな、上の空でいろというのではありません。しっかり聞いてあげた上で、相槌も打ってやる。ただ、その相槌はネガティブなものではなく、フラットにしとくか、相手の気に触らなければ励ましなどポジティブな応接をしてやる。心をそちらに持っていくなということです。

人から悪い態度を取られた時も同様。そういう態度を取られて自分が受け取る気持ち、心持ちの方に心を傾けない。そっちに心が持っていかれそうになったら、人のいないところでつぶやきの暗示を与えてあげる、他の何か別のことを考えてやればいいのです。本当に何も考えないのが一番ですが。

そもそも、人から悪い態度を取られた場合、色々と省みる必要がでてきます。逆に自分の態度、身だしなみはよかったかな、イライラが顔に出ててそれが相手にも伝わってしまったかな、とか、疲れている顔を見せたから向こうもいい顔しなかったのかな、とか。相手の態度や反応というのは、自分の鏡だと思ってください。自責思考につながりますし、少なくとも他人のせいにはしなくなる。

何からでも自分を省みる機会を作り、振り返って検討する。そうすることで、少しでもより良い自己を作り上げることができるのですから、損はしない。それどころかあっという間にネガティブなことが人生から消え去る。ネガティブと捉えることが少なくなるので。そして、そういう心持ちでいると、周りの人も自然と良くなってきます。人の反応は自分の鏡です。そういう人は、周りにいい人、いいことしか寄ってこなくなりやすいし、悪いこと、人があっても良くなっていく。

少し長くなってしまいましたが、今後説明することにも通じるので色々と説明しました。実践方法自体は非常に単純です。

③対人精神態度の積極化(交人態度)

②で少し触れましたが、人と関わる時にも、積極的な態度で応接することです。

現代は、ほとんどの人が消極的です。草食化とかそういうのもありますが、それは異性間での問題にすぎませんから。そうではなく、やたら悪い感情を持ちがちです。アンチコメントをみる時、芸能人のスキャンダルニュースを見る時。そして、SNSスマホ、ニコチン、酒などへの依存。そういうのでとにかく生命力が奪われています。生命力という人生の貴重なリソースを、怒り悲しみ、恐れることによって消費している。

そういう人が多く、かつこのような哲学的・科学的なことは一切知らずに生きているという人がほとんどです。仮に前述のような状態ではないにしても、生きている上で何かあると、こういうことを知らないがために、平常時は問題なく生きていますが、一度アクシデントに見舞われると一気に弱くなる。こういう人は昔から多くいました。平時に安定しているのは当たり前です。なんせ平時ですから。いざという時にさえ心を積極的に保ち、安定を失わないようにできないのでは意味がありませんが、ほとんどの人がそうなのです。

とにかくそんな状態では、会話の内容、人への態度、どれをとっても消極的です。あなたも含め、皆一様です。ですが、あなただけは、そういう状態でいると人生を完全に生きられないということを知っているのですから、あなたまで同じようになっては勿体無い。せっかく縁あって色々知ることができて、少しずつでも実践できる立場にいるんですから。

例えば人から「この間お店のスタッフさんが忙しかったのか注文間違えまくって、結局オーダー通るのに三十分かかったんだよね、時間返せって感じ」とか言われたとします。まぁ、これだけなら、「確かにそれは時間かかりすぎだね、なかなかないよね」とか、悪い言葉を一切使わずに会話できます。

ただ、相手はそれで止まりません。もちろん、「店員が忙しいなんて当たり前でしょ、もう少しおおらかにいようよ」とか言えばすぐ会話は終わりますが、そんな反応ばかりしてたら、例えあなたがいくら正しくても人間関係が狭くなってしまうでしょう。だから、そういう反応はしないでおく、すると、次また消極の上塗りをしてくることが多いです。「だよね!流石に時間かかりすぎてキレそうになったわ。結局クレームも何も言えなかったんだけどさ、あんたならそういう時どうする?」とか、まるでネガティブな反応を欲しているかのような返しをしてきます。

そこで、「私だったら多分ギリクレーム入れるかも。でも、正直怖いよねクレーム入れるのって。めんどくさそう」と返そうとする人がほとんどでしょうが、ご丁寧に会話のほとんどにネガティブが含まれている。「クレームを入れる、クレーム入れるの正直怖い、めんどくさい」一文だけでこんなにもネガティブなワードが入り込んでいます。そしてそれは、相手にとっての他面暗示になり、自分自身への自己暗示ともなります。互いにネガティブな暗示を受け、思考回路はさらにネガティブに。ポジティブな会話に切り替わるまでずっとこんな様子で、どんどん塗り重ねていってしまいます。

こうすればいいのです。「確かにクレーム言いたくなるかもしれないけど、店員さんもわざとやってないから何もしないかな。ちょっと値切り交渉してみたり、仮にわざとやってたら本社にそのまま電話しちゃうかも」「私だってこういう時に絶対テキパキ対応できるかはわからないし、みんな頑張ってればそれでいいんだよ」

これならネガティブにはならないし、基本的にはおおらかで、でも何か言いたいことがあれば毅然と対応する、というのを、堅苦しくなくユーモア交えて返せます。変に相手のネガティブなペースにのみこまれず、話を聞いて否定もせず肯定もしないで、全てを余裕持って優しく包んであげる。相手を否定せず、代わりに肯定的な暗示を与えてやれば、相手はもちろん、暗示は主語を選びませんから自分も良い暗示を受けることになります。すると相手の気分は良くなり、会話も弾むし、あなたに対する印象も良くなります。いったんぶつ切りの否定が入ると、相手は自分の言うことを否定されたと感じてしまうので、それは避けましょう。誰であっても、できることならより良い方向に導いてあげればいいんです。

これでは腹を割った本音が話せず、結局豊かな人間関係は築けないのでは、とか、そもそもこんな返し方ばかりでは、相手が自分と話が合わないと思って、遠ざかってしまうのでは、と心配する方もいるかもしれません。私も思ったことがあります。

ですが考えてみてください。腹を割って話した会話の内容がネガティブな人ばかりの世の中、誰が望むでしょうか。腹を割って話すのは本来楽しいはずです。それが、怒りっぽいだのやたら悲しいだの、そんなのばかりではつまらない。むしろ絶望が残ります。意外な長所があるとか、少しお茶目なところがあるとかそういうのでしょう。これが、腹を割って話すということなんです。あとは、今はこうだけど、昔はやたらネガティブだったとか、体が弱かったんだよねとか。そういうのは意外性もあるし、人は誰でも変われるという希望を表します。腹を割って話すというのはそういうことをいうのであって、何でもかんでも本音で話せば楽だからという安易なのはやめましょう。

豊かな人間関係は、自己を正しく律した人が築き上げられるものです。そして、それは誰でもできます。そもそも先ほどの返しに違和感を覚えた人は、普段からの会話がネガティブの応酬であったからでしょう。でなきゃ違和感を覚えません。ちなみに正直いうと、書いている私でさえ多少の違和感はありました。もちろん安易に相手に同調はしませんが、包容力いっぱいのいい感じの返しを会話の中でするのは、言うは易しでなかなか簡単ではないようです。しかし、必ずできるようになります。人間元々は誰しも快い言葉を使って会話することができるんですから。

相手が遠ざかるかについては、これはそう言う節もなくはないです。「私の想定していた答えといつも違う返事しかしてこない。なんだかんだはぐらかして全然同調してくれないじゃないの、この情け知らず」と思われることはあるでしょう。(女性の口調ですが、女性同士の会話は聞いてると大体こんな感じなので、便宜上こうしただけです。男性同士だって、たまたま私が良く耳にする会話がメルヘンな下ネタだらけなだけで、他の人たちは消極的な会話をしている可能性が高いです。男性も気をつけてください)ただ、それでも諦めずにこちらが常日頃から積極的態度でもって人生に生き、人と接する時にも必ず積極的態度であれば、そのプラスのエネルギーは人に伝わり、人を変えることだってできます。

人を変えるのは易しい、とは言えません。ただ、それで離れていってしまったらしょうがないじゃないですか。離れていくだけの運命だったのだと思えばいい。相手を無理やり引き止めようとしたってどうしようもないですし、かといって自分まで以前のようなネガティブな態度に戻る必要はありません。そうまでして続けたい関係性なんでしょうか。本当にあなたの人生でその人が深い意味を持っているなら、必ずわかってくれます。

冷たいようですが、離れるかどうかはその人の選択です。その瞬間はダメでも、後からまた分かり合えることだってあるかもしれません。積極的態度一貫でいることは、どんな相手にとっても良いことなのです。何より、態度や言葉などの暗示は主語を選びませんから、積極的態度で何人にも接することは、自分にとっても良いことなのです。何なら発言した本人の方が、自己暗示をしたことになるのでより影響を受けます。だからこそ、対人精神態度は非常に大事なのです。あまりその点を意識しないからこそ、です。

成績について、営業の売り上げについて、その他諸々の会話。全てに通じます。謙遜するのは良いことですが、行きすぎると無価値な自己卑下になりかねません。癖がついているのならやめましょう。お互い耳に聞いて心地の良い言葉を使っていればそれで良いのです。

あとは、無理にとは言いませんができるだけ明るく。いつも笑顔でいる人にはなんだかんだ人が寄ってきますし、何より本人が楽しいです。笑っているから楽しくなるのです。楽しいから笑う、これは当たり前ですが、笑うとなぜか楽しくなります。いつだってそうです。それに、悲しんでいる人に寄りつこうとは思わないですよね。なんかあったのかな、刺激したら気まずいしやめとこう、となってしまいますから。

別にクールでいるのは構わない。その辺は自分の性格、内向外向とかありますから。とにかくネガティブにはならないこと。自然体でいつつ、心は積極的な考えで満ちている、そんな状態でいましょう。 ③は以上です。

④後悔・懊悩・心配の三禁(苦労厳禁)

今までなんだかんだ長くなってしまいましたが、これはすぐ終わりそうです。文字通りですし、対処法は②のと同じ。あと、どれもそうですが結局観念要素の更改をしっかり継続しましょうということに尽きます。まずそれで心の奥底、大きな部分を掃除しなければ、話は素直に入ってこないし、荒んだ考えや批判が浮かびがちです。とにかく今は、できるできないは別として、ありのまま受け入れる努力をしましょう。

後悔のことを、過去苦労とも言います。過去にあった出来事で、こうしておけばよかったなとか、ああこの時は大変でやりきれなかったわとか思うことです。苦労厳禁の三つどれにも共通しますが、とにかく今現在それを考えたって仕方ない、ということです。そんなこと考えるくらいだったら、たった今何をするのかを考えた方がマシです。

こういう過去があって、目指す未来がこうある→じゃあ今何をしようか。これが正しい思考回路です。過去はこうで、こうなりたい。ああ、過去にこれをやればよかった、なんて言っても何も解決しません。言えば過去の自分が勝手に頑張ってくれるんですか。そうじゃないでしょう。なら、「今できることを最大限やる」これに尽きます。

次に懊悩。現在苦労ともいいます。文字通り悩んで悶えること。今の時期大変なのが仮に事実だとしても、それをわざわざ考えたり、言葉にしたり、ため息をついて態度に出す必要もない。大変できついなら、一切何も考えず寛げばいいし、何か気分を変えたいのなら自然に行ったり人と話したり、遊びにいけばいい。これも先ほどと同じで、生産性がない。今できることをしましょう、これだけです。

最後に心配。将来苦労、取り越し苦労ともいいます。これも同様です。近々、あるいは遠い将来ならなおさらです。まだ起こってすらいないことを心配してなんになりますか。精神を弱め、ひいては生命力を弱めるだけじゃないですか。

こういう時、「心配なことは心配だろ。それに、疑ったり心配したりする気持ち、自信がないという気持ちがあるからこそ、人は頑張れるんじゃないか。心配しないで余裕こいてる人間はロクな結果を残さない」と主張する人がいます。ただ、間違いです。心配すること自体には、いいことは一つもありません。上記の頑張る人は、備えているだけです。備える動機はといえば、より良い結果を残したいから。少しでもより良い人生を送りたい、そのために今努力する。それだけです。心配する気持ちから発生するのは、中途半端な価値のない結果です。

百歩譲って心配をすること、疑いが発生することが人を努力に駆り立てるとしても、その心配や疑いをやたら持ち続けてはいない。成功する人は仮に臆病からその物事に取り組み始めたとしても、進んだ以上はひたすら前進し続け、結果を残すまでに至る。心配をする人というのは、大抵そうじゃありません。何かを始めても、あるいは始めようとしても、あれはまずいんじゃないか、これは果たしてどうなんだろうか、いやこれキツくないかやっぱやめとこう。これで終わりです。いざ動き始めたとしても、その最中もしきりに心配し、迷って彷徨って結果を残す前にやめてしまうか、結果を残せない。

「心配事の9割は起こらない」と言われています。もちろん、一瞬の心配ならそうですが、ずっと心配して恐れて、なんならもう失敗したと同様の気持ちになり悲しんでいたら、必ずその心配した事柄が現実になってあなたの人生に姿を表します。一瞬心配したことや、心配でもそれを苦にせずやることをやったなら、結局その心配事って起こらないよね、だから怖がらずに一歩を踏み出してみよう、というのが前述の「」書きの意味です。「」書きの言葉を素直にハイそうですかとすんなり心に受け入れて、なんでも思ったことはやってみる、挑戦してみる、なんていう人が決して多くはないという事実を考えれば、ほとんどの人はこの価値のない精神状態でいることが容易にわかります。心配ということが、何の意味もないどころか害しかもたらさないことが、理解できたと思います。

どうすれば心配せずにいられるか。そう、観念要素の更改をやればいいのです。やっていれば、そもそも心配することがグッと減ります。心配の種がないんですから。火のないところに煙は立たないのと同じ。種のないところから花は咲きません。心配する方が難しい、そういう状態にまで持っていけます。そこまでなれば心強いですね。あとは、②同様、打ち消すか受け流す。心配が仮に出ても、

「俺/私の心は強いから、これほどのことでは揺らがないよ」

とでも言えばいい。「絶対大丈夫だ、心配なんかしないぞ」と言うより平然としてていいですね。

④の内容自体はこれで終わりです。次を見たい人は目次から飛ばしちゃっても問題ありません。一応、下に具体例を載せておくので、興味がある方はぜひ。

具体例を挙げておきましょう。身近なところだと、異性への告白とかでしょうか。今日告白しようと決めている時、あるいはホテル行こうとしている時、「今のところは無難な話ができていて、そこそこ楽しんでくれていそうだ。デートも2回目に来てくれたし、多分大丈夫。でも、一緒にいる時そんなに向こうから話しかけてはこないし、そんなに反応が特別いいわけでもない。もしかして一緒にいるのがそんなに楽しくないのかな。魅力を感じてくれていないのかな。これは、今告白するわけにはいかないのか、どうしようもう少し仲良くなってからにしようかな。いやでも次があるとは限らないしこの子可愛いからその間に...いやどうしよう」という風に仮に思ったとします。まぁ、これわかる人にはどうするべきかわかるんでしょうけど、私は恋愛講師ではないので、考え方の解説をします。

こういう時にも先ほどのように、「いや、この子の反応ばかり伺ったって仕方ない、自分がどうしたいかだ。俺の心は強いから、これくらいのことでは揺らがない」と思えば、心配は消えて勇気が出てくるでしょう。

あとは、自分にとって不都合に思えた事実、悪い解釈を加えてしまっている部分を、良い解釈に振り替えるという手法があります。これは少し恋愛に限った話になってくるかもしれないですが、今回だと「一緒にいる時そんなに向こうから話しかけてはこないし、そんなに反応が特別いいわけでもない」という事実に対し、「もしかして一緒にいるのがそんなに楽しくないのかな。魅力を感じてくれていないのかな。」とマイナスに解釈してしまっています。ただ、これはあくまで解釈にすぎません。この解釈は良い方に振り替えることができます。解釈ですから、あなたがすることです。

順番を図に表すと、最初にしたマイナスな解釈→ただの「事実」に戻す→プラスの解釈を入れる、です。いきなりマイナスからプラスに解釈を変えようとしても、無理してるだけです。根拠のない自信とかいいますが、根拠はあるに越したことありません。事実から考えることで、一応根拠ができあがります。

今回の場合、事実は「一緒にいる時そんなに話しかけてこない」「それほどリアクションが良いというわけでもない」です。これに対する解釈を、先ほどのようなネガティブなものから、「口数が多いわけではなさそうだし、割とこれが普通なのかも。もしかしたら照れてることまであるぞこれは。そりゃまぁ、俺ほどの男と歩いてんだ、リアクション素で取るのは簡単じゃないよな」と、こんな感じに変えれば良いのです。

あくまで一例ですし、同じような状況になるかはわかりません。あくまで、こういう場合はこういう風な心の使い方ができるというのを示しただけです。心配が出てこないレベルにまでなるには、無秩序に生きてきたあなた方です、時間はかかるでしょうが、確実にそうなれます。

余談ですが、上記のような場合、告白するかホテル行くかした方がいいです。中級者以上ならホテルに連れて行くと思いますが、いきなりそれはハードルが高いでしょうから、普通にいい雰囲気になったら告白してください。まず、2回目のデートに理由なく来る人はほぼいません。男女共にです。告白を期待しているとまではいきませんが、結構な確率でアリだと思われています。そして、反応がいいとか悪いとかは、よほど悪くなければ気まぐれですし、そもそもその人がどういう性格か、緊張しやすいのかしにくいのかによりますから、そこは気にしないでいいです。

「反応が悪い、の基準」がわからないという人は、①バッグを膝の上におき始めた②スマホ見てる、手に持ってる③明日早いんだよね、とか明確に伝えてくる。とりあえずこの三つを押さえておきましょう。基本的にオッケーな時はパッシブサインで、能動的に何か反応するということはありませんが、本当になしな時はちゃんとそれ相応の動きを見せますから、応用が効きやすいです。詳しく知りたかったら、恋愛系の発信者から詳しく学んでください。無料でも結構いい情報があります。

ただ、これ系の情報や、今回の心の使い方、観念要素の更改など全部そうですが、情報はただの情報にすぎず、実践が伴って初めて意味を成します。だから、ただ知っているだけでは無意味です。知っているだけ、理解しているだけでどうにかなるなら、聖書を読んでいる人は全員聖書通りの清い心がけで人生を送れているはずです。皆さんだって今までも、尊い言葉や有益な情報を目にしたことはあるでしょうが、それだけじゃ解決できません。ハードルの低い簡単な方法なのですから、まずは実践してください。

⑤本心・良心に従う(正義の実行)

最後です。日常の心がけ、地味に多くの言葉を要しました。これは文字通りです。いつも通り、観念要素の更改を継続していれば、自然とできるようになります。実態もわかるようになります。これ以外にも、上記4つの心がけを実践していればできます。本当です。以上! ...これでも全く問題ないのですが、これではあまりにも味気ないので、もう少し解説します。飛ばしたい方は飛ばして大丈夫です。

本心・良心という言葉は、絶対聞いたことがあるでしょう。良心の呵責とか、本心はどうなの?とかいう使われ方をします。でも、じゃあ一から言葉で説明しろと言われても、しっかり説明できるかと言われれば怪しいんじゃないでしょうか。わかりやすくいうと、何となく咎めるような感じがすれば本心良心に反しているし、なんかできる気がする、一点の曇りもなくできることがある、そういう場合は、それは本心良心に従っているということになります。

お金を盗みたいと思ったことがある人がこれを読んでいる中にいるかはわかりませんが、万引きなど盗みを働く時のことを想像してみてください。白昼堂々、正面から「これもらってくわ」と言って持って行く人、おそらく一人もいないでしょう。大抵、人目のつかないような場所、時間を選び、できれば誰の目にも触れずに盗むでしょう。もうすでにこれが本心良心に反しているからこそなのです。

「いや、バレたくないからやろ。刑法の取り決め通りに裁かれて人生崩壊するから、人目をしのぶんじゃないか、心は関係ない」という方もいるかもしれませんが、違います。この場合の人にバレたくないというのは、確実に「悪いことをしたと人の目に触れてしまうのが不甲斐ない」という気持ち、後ろめたさがあるからなんです。人の目に触れても、いくら咎められようと、目的物をしっかり盗れて、誰にもそのことを裁かれないならいいや、というわけにはいかない、これが本心良心なのです。そもそも後ろめたさも何もないなら、刑法で罰されようがなんだろうが、少なくとも隠しはしません。刑法での罰そのものより、悪いことをしたと人目に晒されるのが苦しいのです。

もう一つ、学校での例で、刑法が絡まない例をお伝えしましょう。給食のおかわりが欲しいということで、じゃんけんに参加しました。給食じゃんけんで明らかに負けそうになった時、反射神経を活かして、全員がグーを出して自分がチョキを出したところ、なんとかパーに変えました。誰にもバレず、じゃんけんに勝ったため晴れて揚げパンのおかわりに成功したとします。最初はいいですが、食べ進めるうちに、「今自分が食べているパンは不正によって得たパンであり、本当は自分以外の誰かがこれを得て食べるはずだった」ということを考え、なんとなく後ろめたさを感じ、ある種の苦しさを覚えます。目を背けようとしますが、実際にはこういう時、心の力は非常に弱まるのです。このことを後になっても結構気にしたりします。

別に誰にもバレていないし、しっかり目的物を得て、おかわりじゃんけんに勝って揚げパンを食べたいという欲は見事に満たされたはず。刑法に罰されることも当然ありません。それなのに罪悪感を感じるようにできているのが人間です。そして、この後ろめたさを感じている時、これは人間にとって著しく力の弱まる時なのです。だから、盗撮とかは大抵バレる。そもそも盗み見ている時点で、やってはいけないことだとわかっている。正当性を一ミリも主張できない。そういう時には、バレなくたって本心良心は罪悪を感じ、生命の力は減退してしまう。

私の実体験にもあります。SNSを見過ぎている、辞めたい、けど辞められない。両親には大学の学費を支払ってもらっているし、毎日ご飯も食べさせてもらっている。決して大学でやるべきことは、SNS、ポルノを消費することではないのに。この状況も同じです。本心・良心に反しています。生命の力が落ち込むのです。だから、心がけの最後に、本心良心に反しないで、素直に生きるように、というのです。

浮気なんかもそうです。私はニュースはあまり見ませんが、何も知らないわけではありません。一応スキャンダルは知っています。ああいう時、大体浮気した側が叩かれますね。そして、浮気がバレるのは、生命の力が弱まっているからです。なぜ浮気が良心に反するのか。浮気はダメだという価値観があり、人々もそういう風に頑として信じているからです。

バレたらまずいのは、浮気をすると多額の慰謝料を支払わなければいけないから?それとも親権争いで不利になるから?どちらも違います。浮気が世間にバレて叩かれるからです。一般人なら当事者同士の親、友達、芸能人や有名人なら、大勢から叩かれること。浮気がバレてもなんとも思わない人は、多分浮気していることを言うでしょう。それもそう、当事者間の問題ですから。浮気を隠している間、多少なりとも本心良心には反しているため、完全に正当化できない限りは、その間生命力は弱まっており、バレやすくもなります。女性はともかく男性は絶対バレます。不自然になりやすいからです。なので、悪いと思っているなら、あとは、有名人で自分の行動が大きく業界やスポンサーに影響を与えてしまうなら、辞めたほうがいいです。良心に反します。

⑤は完全に終了です。以下はほぼ関係ない、浮気やスキャンダルニュースに関しての私の意見です。興味があればご覧ください。

ここからは個人的な意見です。本心良心というのは、理性で形作られるものと、永遠に変わらない不変のものとがあります。不変のものはわかりやすいので先に言うと、「自分のことを下げるような言動行動、思考をする」ことは罪悪感、後ろめたさを感じます。だから、これは確実にまずいです。自分を「下げること」のうち、もちろん理性が絡んでいる部分はありますが、絶対的積極があるように、理性の状態、進歩とは関係ない場合が存在します。絶対的消極というのでしょうか。

対して理性の影響を受けるものは、「浮気しちゃいけない」とか、「人のことを襲ってはいけない」などです。浮気がダメなのは、今の時代だけです。つい最近、江戸時代には大奥なんてものもありましたし、一夫一婦制になったのは男が世の中である程度増えた、統治がしやすいなど、そういう理由があってのことです。

ここで、浮気はしちゃいけないのかということについて問題提起します。これはもう、最初からポジショントークのようなもので、浮気したい人は浮気してもいい派だし、相手に浮気してほしくない人は浮気しちゃいけない派に立ちます。主に男性は浮気肯定、女性は浮気否定派に回ります。とはいえ、女性でも相手に満足していなかったり、変えが効かないほどの人生最高の相手でも現れない限り、今の相手より良い男がいれば普通に浮気肯定派に回ります。諸々の事情を考慮してですが。あと、男は「自分の浮気はいいけど相手の浮気は許せない」です。わがままなものですが。

結論からいうと、そんなのは当事者の問題です。浮気を容認せざるを得ないような魅力的な男に対してなら、生物学的に女性は浮気を許すでしょう。それも、魅力的な女性であればあるほど。女性にとって怖いのは、男性が自分に割くはずの諸々のリソースが分配されて自分に回ってこなくなることであって、リソースがそんな外に行かないという絶対の自信があれば浮気はそこまで意味を持ちません。浮気の動機は性欲なのか、と理解を示します。男性はそうはいかないでしょう。怖いのは、自分以外の誰かの子供を代わりに育てさせられ、リソースを割かされることですから。生物的に仕方ありません。

この一連の話で私が言いたいのは、「当事者でもないのに当事者の顔をして人を叩くのは不適切」ということです。たまに「あんな美人と結婚しておいて何しているんだ」とか、「旦那さんがどういう思いで働いて、生まれた子供を案じているのかわからないのか」などと、自分なりの理性による正義を振り翳している人がいますが、それをやる意味はどこにもない。羨ましいなら自分を磨いて何をしても許されるくらいになってみればいいし、されたくないと怖がるくらいなら、されないレベルに自分を良くすればいいのです。もちろん根本から。

浮気などその辺の問題について当事者に一般人が首を突っ込むとどうなるかをお教えしましょう。本心良心は、その時の理性が作り上げるものです。ですから、叩かれなかったら、人に悪いことだと咎められるようなことがなければ、後ろめたさは生じません。本心と良心が関係あるのは当事者間での合意があるかないかです。合意があれば問題ないですし、合意なしに、なんなら反対される可能性が高くそれをすると相手の気を悪くして失う可能性が高いから、本心良心には反することになります。本来はこうあるべきですが、今の世の中はどうでしょうか。

有名人はもちろん、当事者以外の人間であっても当事者に非常に近しい人なども、ほぼ例外なく全員浮気を倫理的に悪いものだと思っています。しきりに浮気は叩かれます。すると、浮気をするときに、例え当事者同士が容認していても、必ず後ろめたさが生じてしまいます。なぜなら当事者でなく世間に叩かれるから。当事者間で問題にならなくても、浮気をすると社会的に大きな制裁をくらう、誰がそんな権限を持っているかは知らないが、とりあえず浮気をすると高確率でスポンサーが降りたり、なぜかそれだけで目線が冷たくなり縁を切られることがある。すると、浮気=悪、でも浮気はしたい、となり、浮気すると良心の呵責が生じて、結果的にその人の生命力を弱めることになってしまう。つまり、今の世の中で浮気を叩いている人たちは、間接的に人の生命力を弱めようとしているのです。

ここでも、「浮気する奴が悪い」と言われるかもしれませんが、何度でも言いましょう。浮気は当事者間のみでの問題であって、例え親でも友達であっても、当事者間の問題に首を突っ込むべきではないのです。人の生命力を弱める資格がどこにあるのでしょうか。絶対にやめるべきです。「ちょっと待て、流石に親、親戚は当事者のうちに入るだろう」そう考えるかもしれません。では聞きますが、今は憲法において、「両性の合意のみ」に基づいて婚姻が成立することが定められています。であれば、「両性」以外は、何も口を出すことはできません。結婚する当事者の両親や親戚は、「両性」に含まれますか?含まれないです。

浮気もまた、「両性」間の問題なのです。別にこれは異性愛者に限らないです。両性の意味は判例・学説・政府見解等に色々ありますが、立法当時の趣旨を考えれば、親兄弟の意思を入れない、この点に尽きます。当時は「男と女の婚姻のことはもはや否定も肯定もない、当たり前のこと」だったのです。当時の理性では男女同士の婚姻が絶対的なのです。この理性が今は違いますから、また議論をしなおしている最中ですが、少なくとも立法の趣旨は「親兄弟の意向ではなく、両性間のみで、婚姻に関する取り決めは全て完結させよう」というものです。だから、婚姻関係にある者同士の浮気も、同性愛者カップルの浮気も、同様に当事者以外の人は誰であっても口を出すべきではないのです。

まぁ、現実問題結婚等は両親にも関わる問題にはなってしまいますから、そこらへんは家庭の事情でしょう。ですが、ニュースでやたらスキャンダル(スキャンダルにしているのはマスコミ報道だが)を広め、それを目にした人々が当該有名人を叩く、これは本来許されないことです。当事者の意思はそっちのけですから。

こういうのはプライバシーであって、本来なんの公共性もありません。公共性が発生するのは、スポンサーとの関わりなどそういうところにあるんでしょうが、スポンサーとの関係がその人の浮気によって危うくなるとしたら、それは多くの人が浮気はダメだという理性、常識を持って互いに押し付けているからです。そしてその常識を押し付けているのは、報道関係だったりします。我々一般人は知らない間に謎の価値観を頭に入れられているのです。人を殺したわけでも、不実の横領をしたわけでもないのに、非常に悪いかのような報じ方をしている。一般人にウケがいいからこういう報道をする、という理屈はなくはないですが、そもそも一般人にウケるようにしたのは報道関係です。

だから報道を目にするなというわけではありません。報道は報道としてやるべきことがあります。報道によって届けられる情報のメインがこのようなものであること自体が問題なのです。これは変えなければならない。そして、それを変えるには、我々一般人が、このようなくだらない、人を下げるだけのものに反応しないような感覚を養う必要があります。必要な情報と、そうでないものを見極めるのです。自分の受け取り方と、そこからの自分の反応を顧みて適切な対処をすることができれば、社会は良くなっていきます。内省検討をし、暗示を再考し、良心に目をむけ従う。結局一人一人の向上こそ、国家と社会と、世界を良くする上で最も大切なことです。

批判ばかりして、自分に目を向けなかったら、人生を良く生きることが難しくなります。それでは悲しいですよね。せっかく一度の人生なのですから、自分に目を向けて、日々を大切に生きましょう。長くなりましたが以上です。

 

まとめ

積極観念の養成は観念要素の更改が前提になっているところがあるので、最初のうちは難しく感じるかもしれません。最初はできなくても、やっていけば必ず慣れてくるので諦めないでください。今まで無秩序に生きていたとしても、これからの人生ずっと秩序を持って良い人生に生きられるとしたら、即効性がなくとも問題ないと思います。

基本的な考え方としては、今できることをしっかりやることです。もっと早くにやっておけば、とか、なかなかできないな...とか落ち込む必要はない。まして、これからもできないんじゃないか、と思う必要もない。そう思うならすぐ取り掛かるのが最も良い結果を出すのですから。

 

神経反射の調節

それでは、基本の三つの最後である神経反射の調節について解説します。これは、本当にすごい方法です。まず、どういうものかを説明します。非常に簡単にいうと、ストレスを軽減します。以下、ストレスに関する説明です。

ストレスについて

人間にはストレスというものがあります。外界から受けた色々な刺激が内部に到達すると、ストレスになるのです。コルチゾールとかは有名です。もちろん、ストレスは全て悪いものというわけではありません。分泌されると安心感を覚えるようなホルモン、オキシトシンはストレスホルモンの一種です。それに、緊張によって発生するストレスも、適度なストレスの受け取り方であればむしろプラスに働くという科学的結果も出されています。

大事なのは、ストレスが「適切に」受け取られることです。ストレスを敵視する必要はありませんし、むしろそのようなマインドでいることが、余計に必要以上にストレスを受けて心身が弱まります。ただ、それができる人はほとんどいないです。だからこそ、ストレスというものが世の多くの人を悩ませているのです。

一般的にストレスは成長の材料ともなります。精神的、肉体的負荷がかかるとそれに対して反応し、抵抗力を身につけ適応しようとします。それが人間の成長作用なのです。筋トレで体が大きくなるのもこれ、舞台慣れしている人というのは、精神的負荷をかけてきた人です。仮に舞台に立ったことがなくても、常に人前に出て、ある程度中心人物だったはず。家に引きこもってスマホSNSに依存し、ゲームしかしていない人が急に舞台に立っても何もできません。声も小さくなるし、なんなら立ってられないかもしれません。

成長に良いストレスですが、与えられ続けると心、体どちらも耐えられません。先の例に出したこのニートのような人、まずは一対一でも人と話をしに外に出かけるべきです。いきなり大舞台に立って人前に出る練習をしようというのは、流石に飛ばしすぎです。これはみなさんわかると思います。筋トレでもそうです。自分の現在のキャパを大きく超えた重量をこなそうとしても、そもそも歯が立たない、あるいは簡単に怪我をします。また、回数を多くやりすぎると、翌日体は動きません。

大事なのは、精神的にも肉体的にも、今のキャパを超えないように、負荷を適切に与え、かつ休息を取る必要があるのです。

負荷+休息=成長

これを心得てください。

話は変わりますが、ストレスをある程度受けるべきなのはわかったと思います。では、一体どれほどの人がストレスを適切に受け取っているでしょうか。大抵の人は、ストレスに関する先ほどの基礎的な考え方さえ持っておらず、ただ悪いものだと思っています。心の方で、ストレスを受けてはいけないと思っていると、それにもかかわらずストレスを受けた時、非常に悩みを感じます。「ストレスを受けたらまずいのに、ストレスだらけだ。ああこれはまずいどうしよう」というように。すると、本来のストレスが10くらいだとしても、そのストレスは心の中で増幅され、200にも300にもなり得ます。要は、本来適切にストレスを受け取っていればよかったものを、必要以上に大きく受け取って、精神も肉体も弱める結果を招く。現代人のほとんどはそうです。特に若い人はそうなんじゃないでしょうか。

また、病気の時、物事がうまくいかない時にもストレスは発生します。そこで、「病気が治らなかったらどうしよう」と思ったり、「これが失敗したらまずい、どうしよう」と思うと、本来そこから受けるストレスを何倍にも増幅します。だから、ストレスは古今東西、どこでも敵視されているのです。ですが、敵視する考えそのものが良くないし、なぜ敵視するようになったかというと、原因は私たちの心の作用にあったのです。ストレスを適切に受け取るだけなら、ストレスは悪者にはなり得ません。

そこで、このストレスを必要以上に増幅させない方法が、神経反射の調節方法なのです。元の教えでは、これを「クンバハカ」と言います。厳密には応用したもののようです。

クンバハカとは、外国語です。サンスクリット語らしいです。教えを作った人は、若い頃体が弱くなって、なんとか治したい、心の強さを取り戻したいと思って世界中を旅し、最終的にインドに行きました。そこで、インドにおいてこの方法を「悟った」のです。そこで、クンバハカというものがインドで千年以上も前から発見されていることを知ったようです。日本語に訳すと、「最も神聖な状態」「完全な状態」というもののようです。

何かストレスを受けた時、マイナスの感情が出てきた時には、このクンバハカを実践すると、受けるストレスの量が適切になります。これは何を意味するか。ストレス社会と言われている現代の社会で、ほとんどストレスを受けずに過ごすことができます。厳密にはストレスは受けます。0にはなりませんが、限りなく抑えることができるようになります。今まで受け取っていたストレスがいかに過剰であったか、良くわかるようになります。

実際の方法について

それでは、このクンバハカ、神経反射の調節の実践方法をお教えしましょう。

といきたいところなんですが、申し訳ない、それはできません。この方法は、もともとインドでも、「人に教えるものではない」のです。その理由は私もこの間わかりました。「人に言葉で伝えられない」です。この状態を説明するのは、米を食べたことがない人に米の味を伝えるのと同じくらい難しいです。

教えの元となった人は、この方法を言葉で教えてくれています。ただ、私はこの言葉通りやっていたつもりでしたが、何か不自然な感じがずっとしていました。もしかして、やり方が間違っているのかと思い、自分でもう一度考え直した結果、間違っていることに気づきました。これは仕方のないことです。

要は、私がここで状態を伝えても、みなさんの解釈によって大幅にその状態が変わってきてしまう。それだと、みなさんがクンバハカとはこうだろうと思って熱心に実践して、かえって健康被害を招くことになりかねません。実は私は、間違っていたために腹をしきりに弱くするようになっていました。それに、これは呼吸の合間にする姿勢なんですが、なんだか呼吸しにくく、実践しにくい感じでした。

なので、みなさんに直接お教えすることはできません。やはりこの方法は、一旦それぞれで考えていただくのがよろしいと思います。代わりにというか、この状態を例えて形容する言葉があるので、それをお伝えいたします。インドの修行者たちは、全員この命題を与えられてそこからクンバハカがどういう状態なのか、自分なりに推測して体得するようですが、大半は一生体得できないようです。さらに、この状態をできる限り正しく理解できるよう、私がヒントを付け足します。

クンバハカの状態とは

まずクンバハカの状態についてお伝えします。

体の状態を、壺に水をいっぱい入れたような状態にすること。呼吸の合間にこの姿勢を取ることが、クンバハカです。何を言っているのやらという感じですね。インドのヨガ哲学が元なのですが、インドのヨガ修行者は、この言葉のみを元に自分でクンバハカの状態がなんたるかを悟らなければなりません。だから、全然これを悟れる人はいない。10年20年かかってようやくわかる。むしろそれなら良い方で、20歳ごろこの命題を与えられたのに、80歳後半になってもわからないという人もいたそうです。みなさんの中でも、これだけですぐわかる人はいないでしょう。ちなみに私も全くわからず、その後すぐ解説がなかったらいまだにわかっていません。

まぁ私はその解説を受けても、どうも正しくはできていなかったんです。そこで、もう一度この文章を元に数日間考えて、色々な姿勢の取り方などを試しました。そして体を自然な状態にした結果、ようやくわかりました。おそらく、この伝え方が精一杯で、やはり人からこの状態を聞いたって、本当に自分のものにはならないようです。なんせ完璧な状態という意味ですから。実際、呼吸の合間にこれをやると、非常に落ち着くというか、気分がおさまります。

人間は、気分を意図的に治められるほど強いことはないです。怒るとかイライラするとかムラムラするとか怖がるとか、そういうのは反射作用なんです。抑制しようといっても、正しい処置の方法を知らなければ、どんどんそれらが増幅されてしまう。もちろん普段から心の状態を良くしていれば、ある程度それらを正しく受け取ることができ、それ以上にはなりませんが、感応性能の強化のうち前二つをやっていない限りは、現代人ではそんな人はほぼいないから、結局それらの刺激を受けて反射作用が起こってからこれに対処しようとしますが、難しいです。池などに石を投げると、水面に模様ができそれは広がっていきます。そして、岩などに当たると戻ってきますね。戻ってくる時、波紋自体は大きくなっていませんか。まさにそういうことです。

とまあ、このように非常に良いものだということですが、いかんせんやり方はこうだよと教えて貰えなきゃ意味ありません。みなさんにこの状態が最大限正しく伝わり、またそれを元に自分で考えることができるようなヒントを載せます。

ヒント一覧

ヒント1 壺に水をたくさん入れた状態、の壺というのは、上半身のことをさしている。一旦四肢のことは考えないでよろしい。つまり上半身を壺と考え、水がたくさん入っている状態を表す。

ヒント2 要は上虚下実の状態を表す。壺というのは、壺の底面以外は全てに一定の力がかかっている。だから、上半身は自然体、変なところに力が入っていないというのが大事で、重心は自然と下に行く。すると、足の方は意識せずとも充実してくるので、上虚下実。

ヒント3 先ほども言った通り、壺は底面以外には一定の水圧しかかかっていない。しかし、底面にはある程度大きめの圧力がかかっている。体の話に戻すと、底面以外、つまり上半身のうち、腹や胸、背中、腰などに力は入れないでいいが、逆にいうと底面の部分は閉じていなければならない。でなければ壺として使い物にならない。底面はある程度締まっている必要がある。上半身の底面とはどこか。ここは考えていただきたい。

ヒント4 重いものを踏ん張って持ち上げる時の体の状態は、限りなくこの状態に近い。完全な状態というだけあって、人間も力を振り絞る時には無意識にこの状態にはなれる。ただ、意識的にではないし統制が取れていない場合がほとんど。重いものをよいしょと持ち上げた時、腰部及び上半身の底面を意識すると、わかるかもしれない。また、いきなり冷たい水に浸かる時、この時もこの状態になる可能性が高い。

以上四つです。長くなったが、キーワードをそれぞれまとめると、

上半身を壺に見立てよ、上虚下実の状態になれ、上半身の底面は閉じろ、重いものを持ち上げた時、冷たい水に入る時の体を意識しろ

である。特に重要なのは、上半身のうち、底面を閉じろという部分だ。壺の底の部分である。あと、壺というとわかりにくいが、ワイングラスの「ステム」という細い部分を除いたところと言えば、よりわかりやすいかもしれない。ボウルの部分が上半身だ。グラスだからそんなことはないが、底の部分が抜けてたら水が入らないでしょう。必ず締まっているから「底」なのであり、容器として成立するのです。

ただ、上半身はどこにも余計な力は入れません。特に肩には力が入りがちですが、厳禁です。肩は自然体にし、下げておきましょう。また、足を閉じようとする試みがよくなされますが、足は開いたままでできるので、あくまで「上半身の底面」を考えましょう。下半身にも余計な力は入れませんが、土台なので自然とドッシリとした構えになります。規律状態をキープするのは、ほとんどの人が辛いというでしょう。それは重心が定まっていないからで、上半身下半身、とりわけ上半身には余計な力を入れがちなのです。それを簡単に治せます。この姿勢になるには上虚下実になれというわけではなく、この姿勢を取れば、上虚下実になるよ、ということでもあります。下がどっしりして、上半身及び全身がリラックスできたなら、それがクンバハカでしょう。

重いものを持ち上げる時というのは、試してみればすぐわかることです。実際に重いものを持ち上げた時に、この状態がクンバハカかも、と気づくには、腰部を意識すると良いでしょう。壷、上半身の底面の状態が、重いものを持ち上げるときどうなっているかに気を配るようにすると気づきやすいです。冷たい水に入る時も同様です。この場合、一回入って出たあとの状態と、入っている時の状態を比べると良いでしょう。

これならわかると思います。結構充実したヒントになったので、クンバハカの案内はここまでとします。一応正解を知りたいよという方は、参考文献の一つ、「真人生の探究」を読んでみると良いでしょう。答えが書いてあります。こちらで考えたあと、本で分かりやすい答えを確認すれば、確実に正しい方法を自分のものにできます。

手順

ここからは、神経反射の調節においてこのクンバハカをどのように応用するのか、これを解説していきます。結論からいうと、呼吸の合間合間にやってください。それだけです。本来クンバハカの体勢を一回やれば神経反射の調節はできますが、心のコントロールをできたことがない人は一回フッとやっただけでは足りません。そういう時のために、呼吸に織り交ぜるのです。順は以下の通りです。

肺からまず息を吐く→ある程度吐ききったら上記の説明のような、クンバハカの体勢を取る→すぐまた息を吸う→クンバハカ体勢 以下同

気づいた時にやってください。血圧を下げる作用もあり、神経系が安定します。リラックス効果もあり、深い呼吸ができます。ちなみに、皆さんが普段している呼吸は吸う方にフォーカスし、深呼吸時などは特に吸う方からしていると思いますが、文字通り「呼気」から始めた方が良いです。まず肺の中の空気を全部出してしまう。その後に吸えば、新しい空気が入ってきます。

その他注意点は以下の4点です

①深呼吸をしようという意識はあまりいらない 

腹式呼吸はしないこと

③運動中は控えること

④あまりに空気の悪そうなところではやらないこと

①についてですが、この呼吸はいつでもできます。時間をとってリラックスして深呼吸する、という意識は必要ありません。歩いている時、電車に乗っている時、スポーツのインターバル中などいつでもできます。②については不思議に思われる方もいるかもしれませんが、腹式呼吸はあまり自然ではありません。女性は胸式呼吸、男性は腹式呼吸などと言われますし、何かと腹式呼吸を健康のために勧めるところがありますが、普通に肺を使えばいい。もちろん、肺の上部だけでするような浅い呼吸ではいけません。肺全体、とりわけ下部まで意識して呼吸すれば十分です。

運動中は控えてください。血圧を下げるためのものなのに、変に意識してかえって呼吸が崩れ血圧が上がります。運動中というのは、それぞれにあった最適な呼吸をしているから大丈夫です。仮に適切な呼吸ができないとしたら、それは普段の呼吸が浅い、間違っているということです。空気の悪い場所でやるのもよくないです。肺全体を意識して呼吸する分、かえって悪いものを吸って体調を崩す可能性もあります。森、山の中、海などの自然の中、また風通しの良いところでするようにしましょう。

以上です。これを、何か心や体にショックを与えられた時、都度やるようにしましょう。クンバハカの姿勢に一時なるだけでも、劇的な効果があります。もちろんその際、姿勢を取ることに意識を向けるんです。イライラの原因に心を向けたままでは意味がありません。また、できる時は日頃から意識的にやるようにすると、気の緩みがグッと少なくなり、常に何事に対しても明瞭な気持ちで取り組めるようになります。忘れ物等の過失は、意識が色々なところに分散しているからこそ起こる現象です。呼吸と姿勢に意識を向けながら物事に取り組めば、最初は大変でもだんだん今取り組んでいると、考えていること以外の観念が入らなくなり、過失が減ります。

応用 プラナヤマ

ここからは応用法です。クンバハカの状態が分かり、姿勢と呼吸を意識し、その中にクンバハカを取り入れられるようになったら、これを応用した深呼吸、プラナヤマに挑戦してみましょう。

概ね先ほどと同じですが、これは完全に深呼吸をして体に新鮮な空気を入れてやる、そこから活力を吸収するものです。活力の吸収について軽くお話しすると、活力は人間を生かすエネルギーのことです。この活力は色々なところから吸収できます。水や食べ物です。ですが、これらよりも何よりも大切なのが、空気中の活力です。水は3日、食物は1週間ほどとらなくてもどうにかなりますが、空気はそうはいかないのです。空気中からの活力を得ることは非常に大切なのです。

さらに、先ほどの一連の呼吸をするとき、特に息を吐く時に、外界から受けた刺激とそこから発生した悪い感情などを全て吐き出してしまうイメージをします。そして、吸う時には何も考えず、ただ空気を味わい、心身の活力を吸収するようなイメージをする。観念の力を使うことで、よりプラナヤマが効果を発揮します。これは、病気の場合、怪我をしている場合にもできます。

息を吐く時に病気の患部、怪我の箇所の悪いものが全て出ていくイメージをし、吸う時にはよりそこに活力、エネルギーが沁み渡るようなイメージをします。これを、一度に3回を限度に行いましょう。

この呼吸法は深呼吸なので、やりすぎはよくないそうです。肺の大きな使い方は、体には当然いいですが、何事も一度にやりすぎるのはよくないのです。また呼吸合間のクンバハカの体勢をする時、無意識に力を入れるべきでないところに力を入れがちになるので、結構難しいのです。特に腹は過度に力みがちです。腹の方には意識を向けますが、腹筋で踏ん張るのはまた違います。気をつけましょう。

以上でプラナヤマの方法の解説を終わります。神経反射の調節に関しても、これで説明は終わりです。

まとめ

神経反射の調節には、クンバハカという姿勢を自分である程度考えて理解する必要があり、基本となる一つの命題と、四つのヒントからその姿勢を自分で導いてください。わからなくてもすぐ諦めず、一旦自分なりに考えてから原文に当たりましょう。この方法は、一回スッとやれば神経の昂りは抑えられますが、最初のうちは数回やりましょう。それが、呼吸に織り交ぜる方法です。この際はプラナヤマと違い、深呼吸をするという意識は必要ありません。



総括

以上で三つの方法を全て解説しました。これを知ってからの人生は、冗談抜きで激変します。今すぐ変わるよとは言いませんが、毎日少しでも継続していれば、必ず実感できるようになります。

人生をよくするには、本来人間が備えている生命力を充実させなければいけません。長く、強く、広く、深い人生を送るために、六つの力を充実させる必要があり、その六つの力を充実させるには、感応性能を強化しなければなりません。感応性能の強化には、観念要素の更改、積極観念の養成、神経反射の調節の3つを、日々の生活の中で実践し、心がけることが最も効果的です。

主に心の方を処置することが人生をよくすることにつながるというのを不思議に感じた方もいるかもしれません。健全な肉体に健全な精神宿るという言葉や、肉体を良くすることで気分をポジティブにしたり人生を良くしたという話を良く耳にするからだと思います。もちろん、体と心は一連の流れにあり、決して完全に切り分けて別々に捉えるものではないのです。ただ、どちらかというと心が川上、肉体は川下です。

肉体を変えた人たちだって、肉体を変えようと決意してトレーニング等を継続するには、まず心が先に動き、体を動かしたはずです。体が勝手に動くなんていうのは比喩表現で、心が動かなければ何を頑張っても体は動きません。ことわざの方もそうです。健全な肉体に健全な精神が宿るように感じるのは無理もありませんが、その健全な肉体を作り上げるには意志の力が不可欠ですし、心でこうしようと思うから、肉体を動かせるのです。トレーニングのことばかり言いましたが、人間の生活全てに通じます。

特にトレーニングや自分磨きに関して言えば、継続し結果を目に見える形で残すことで、「自分は頑張ると決意したことを実際に行動に移すことができ、継続できる人間なんだ」というセルフイメージが出来上がるから自信がつくのです。これは、肉体の変化が心の作用によってもたらされているということの証左です。肉体の変化を起こすにはそもそも心の状態が積極的でなければならないのです。だから、心の状態をまず良くすることを最優先に説明しました。できるだけ理論を省いて、実践の方にフォーカスしました。実践してください。考え方、人生の捉え方を知っているだけでは意味がありません。その考え方、捉え方がいつでもでき、実際にその通り生きられるような方法を実践することにこそ、本当の価値があります。最初のうちは理論は二の次で構いません。理論や考え方、例え話は、皆さんがこれらの方法を実践する上での手助けになればいいなと思って書いています。

話は変わります。このページをみた人は、人生に何かしら悩みや不満を抱えていると思います。もっと安らいだ人生を歩みたいのに、とか、現状に不満があってそれを変えたいという人でなければ、わざわざここまで読まないでしょう。それこそ、本当に感謝するべきです。最初からなんの不満もなく、全てに恵まれていた、それも悪くはないでしょう。しかし、きついことがある、辛いことがある、でもそれに負けることなく、全力を尽くして生き、これを乗り越える。これこそ、成長・向上ということであり、生まれがいのある人生と言えるのではないでしょうか。

できないことができるようになり、日々一歩ずつではあれど確実に成長していく。これほど楽しいことはありません。現に私は、何もできなかった自分、今何かができずつまづいている自分、全てありのままの自分を好きになれました。なぜなら、何もできない状態こそチャンスだから。何もできないということは伸び代しかない。向上以外に道はない。

例え話ですが、格闘技イベントなどをはじめとしたスポーツのチャンピオンと、底辺クラスの競技者、どっちが伸び伸びしているでしょうか。王者の余裕とか言いますが、実際は余裕なんてありません。相対的な順位の中で、いつ蹴落とされるか、いつ自分の上位互換が出てくるか震えて待つことが多いです。逆に底辺クラスは少しでも順位を上げ、チャンピオンを狙い倒しにいくだけ。なら、成長・向上以外に道はない。

武井壮は実際にそう発言していましたし、一流の人というのは何かとこの考えを持っています。だから、人を惹きつける。まぁ、実際にこんな心もちになる方法を知らなければ、ただ聞いただけなのでそうは思えません。実際の方法を知っているからこそ、こういう言葉を聞いて安心できるのです。本当に何もできず、できるようになる方法も知らずでは、そういう考えを持った人を前にして、自分の至らなさを突きつけられてしまうだけ。落胆と、もっといけば絶望しか残らない。

ですが皆さんは、実際に人生を幸せに、よく生きる方法の土台となる方法の全てをここで自分のものにできたのですから、本当に幸せです。今までは、不運だなとか、なんで自分だけと思うことがあったでしょう。実際私はこのような観念ばかり持っていました。しかし、今日からはもう、そんな自分をも、全て受け入れられます。それに、もうこのような考えを持つ必要はありません。いつか、というか近いうちに、私のようにこれらを「思い出話」として語れるようになり、笑い合えるようになります。

以上です。このうえはただ不断の実践をしてください

 

続きは後ほどだします。次は「思考・言葉・行動」についてです。多くの現代人が悩んでいる依存症からの脱却を初め、人生の様々なことを解決する、もう少しディープなお話をします。ただ、あくまで実践のお話です。

ここでは詳しく述べなかった哲学的思索については、また別途お作りしますので、更新をお待ちください。人生を考える上で絶対必要ですが、難しいので後回しにしました。読んでいただければ、人生や自己がどういうものかについての揺るぎない信念・確信を得る一助になること間違いなしです。










 

 

 

 

主な参考図書、原文

・幸福なる人生

・真人生の探求

・研心抄

・心に成功の炎を

・盛大な人生

・成功の実現

・運命を拓く

・ヨーガに生きる

・叡智のひびき

・信念の奇跡

・ザ・マスターキー