shinmakoto_9のブログ

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本当にモテる人の特徴

 

2023 9/13 (水) 18:00  


こんにちは、真です。
これから毎日(たまにお休み)人生の問題や時事的な社会問題に焦点を当てながら、人生を充実させるための重要なテーマについて深く理解するための投稿をお届けします。真のひとこと第一弾です。

早速本題に入ります。
モテる人、あなたの周りにもいるんじゃないでしょうか。それか、あなた自身がモテる人かもしれません。
現代は特に、モテる人とモテない人の差が激しい。恋愛格差は広まっていく一方です。そんな中でも、一定数は、異性から絶大な人気を得ている。

そんな彼らの特徴はズバリ、「与える人」です。

なんのこっちゃと思うかもしれませんが、本当にモテている人たちというのは、紛れもなくみんな、「与える人」なのです。どういうことか詳しく説明しましょう。

異性から人気を得やすい人の特徴として一番に挙げられるのが、「見た目の良さ」です。見た目がいいこと、これ自体すでに、「与えて」います。

何を?そう、自身のその見た目によって、人々に視覚的満足を与えているのです。ちなみに見た目のいい人は、その人の性別がどっちであれ、両性ともに好かれます。同性にも異性にも好かれます。

そりゃもう、友達であっても見た目が良い、爽やかさを感じる、という方がいいですよね。髪がボサボサで、何も整えられていない人がいて、「まぁ、この人は同性だから、見た目はどうでもいい」とはなりません。
あまりに見た目が悪いとなると、いくら異性関係だのなんだのなくても、一緒にいたいとは思えませんよね。つまりその人は見た目においては、相手に何も提供していない、それどころか不快感すら与えてしまっている。
(ここでいう見た目が悪いとは、身だしなみがなっていないことを言う。肌荒れもなく、服も無難で髪や髭を整えていればそもそも不快感を与えることはない)

ちなみに、不快感は「与えるもの」という扱いを受けていますが、厳密にいうと、「相手の視覚的満足を奪っている」とでもいうのでしょうか。つまり、その人の見た目は、相手の良い気分などを台無しにする場合もあるんですから、そういう場合はその人のせっかくのいい気分でいる時間を奪うことになるわけです。

見た目の話はこれで終わり。次にモテる人といえば、コミュ力のある人でしょうか。

コミュ力のある人は、本当に強いです。もちろん、最低限の整えられた見た目がないとそもそもコミュニケーションを取らないですが、コミュ力があるかどうかは、見た目よりもずっと大切です。特に現代においては、スマホ依存など、依存者が多いせいでより顕著にその傾向が現れています。

コミュ力のある人が相手に与えるものはたくさんありますが、キリがないので主要なのを抜粋します。

  • 自己重要感(自己肯定感+他者からの承認)

  • 承認欲求

代表的なのは以上の二つ(三つ)です。
まず、コミュ力のある人というのは、相手の話を引き出してあげることが上手い。気づいたら自分ばかり話してしまっていたという状態を作り出してあげるのです。

すると、まず話をさせてあげることによって承認欲求を満たし、その話に適切な相槌を入れることで他者からの承認、つまり社会的欲求を満たします。
社会的欲求は帰属欲求とも言われ、人との関わりの中に身を置きたいという欲のことですが、会話をする相手がいるというのは見事にこれを満たします。

さらに、たまにツッコミを入れてくれたり、二人だけの秘密をシェアしてくるような人なら、自己肯定感も満たしてやれます。そういうのは普通信用できる人にしかしませんよね。ということは、この人は自分のことを信用してくれているんだな、と思い、信用できると思われている=自分は信頼の厚い人間だ、ということで自己肯定感が生まれます。
もちろん、話をたくさん聞いてくれて適切な相槌を入れてくれる時点で、それだけ自分の話がいいのかな、と思うため、自己肯定感は満たされますが。

このように、複数の欲求を一度に満たしてやれますから、男性でも女性でも、コミュ力のある人は本当に強いです。与えるものが多いほどモテるのです。

他の特徴としては、お金持ちであるとか、そもそもモテる人であるとか色々いますが、どれにも共通しているのは「与える人」である点です。モテている=たくさん価値提供している人、ということになるし、お金についても同様です。

amazonの社長はお金持ちですが、それだけamazonが利用されているから。利用されているのは、人々に「与える」からですよね。もちろんお金は儲けていますが、そもそも何も「与える」ものでなければ、人々はamazonのサービスを利用しません。価値提供ができていないものは売れない=お金も集まらないのです。

結論、モテる人は「与える人」ですから、今モテないのであればあなたは価値提供ができない人ということになりますし、モテたかったら「与える人」になればいい。

このような反論があるかもしれません。
「それができりゃ苦労してない。与えるものは何もないし、与えるものを用意するには、私が誰かから与えられる必要がある。与えられるものがなきゃ、ないものは出ないんだから与えようがない。でも誰も与えてくれないから、いつも取りに行く側に回るしかないんだ。そういう人は一生モテないのか。結局この世は、生まれた環境に全てが決められるではないか」と。

実のところ私も以前は何かと理屈をこねて、このように考えていました。そりゃ、私は環境自体には恵まれていましたが、そのことに目を向けられていないから無いのと同じです。それに、この考えには一理ある。

例えば、見た目のいい人は小さい頃から他者に優しい対応・フレンドリーな対応をされるため、自然と人当たりが良くなっていきます。そして、人当たりが良くなれば、相手も嬉しくなり、相手の嬉しい表情を見て人と関わることがさらに楽しくなり、人と関わる場所に積極的に出て行こうとします。コミュ力は磨かれていきますし、見た目の良さも相まっていつしかどこに行っても輪の中心となっている。こんなのは良くある話です。反対は… 残酷ですからやめておきます。

見た目がよく、実家も太くて昔から色々なものも与えられている。かつ、「傲慢になってはいけない、与えられたものには感謝し、あなたはその倍与えてやりなさい」というような教育をされていたとする。この教育さえ、親や先生から「与えられるもの」ですから、こういう人はもはや完全無欠に近い。こんな人がいるかは知りませんが、そりゃあ先天的に恵まれている人はいます。

で、私はこういう人と自分を比較して、「こんなのが世の中にはいるんだぜ、めちゃくちゃ不平等で不親切じゃねぇか。やってらんない」と思ってました。こういう思考回路の人はたくさんいますよね。まぁ、仕方のないことではあります。現代になんの備えもなく生きていたら、こうなるのも当たり前です。

しかし、すでに我々はこの世に生を受けている。命を与えられている。そして、私の固定ブログを見ていただいた方ならわかると思いますが、生きている人間は誰でも、六つの潜在的な力を有している。有しているその力が充実していれば、人生を本当に有意義なものにすることができるのです。

たとえ大変なことがあっても、その力を充実させていれば、何でも乗り越えられる。だから、苦しいと思うようなことも、本人にとっては楽しい。人間とはもともとそういう存在なのです。

ですから、すでにこうやって生きていられる時点で、我々は「与えられている」。たとえ、誰にも何も恵んでもらわなくても、他人に愛されなくとも、あるいは蔑まれようとも、本来は人は与えられている力で、人に与えることができる。
「俺は蔑まれてきた、だから俺もできるだけ人を蔑んでやる」とか、「私は幼少の頃から両親に何かと物事を強制された、だから自分も他者に無理強いをするし、子供にも強制する」というような考えを持っている人は、考えたほうがいい。

そもそも蔑まれたとか無視されたとか愛されなかったとか、そういうのはただの「事実」です。そこにあなたが意味づけをするのですから、その事実を適切に受け取るなら、そんなものはなんの意味も持たない。人それぞれ、たとえ悪いことがあってもそれを乗り越える力が与えられている。

心こそその「力」であり、誰にでもある。その与えられた力を自分で使わず働きを弱めているのだから、人に与えようにも与えられません。

あなた方一人一人は、与える必要はあっても、与えられる必要はないのです。すでにこの命と、それに付随する力を与えられているのに、これ以上何を望むんでしょうか。人から与えられなくても、あなたは人に与えてやれる。
それだけの力があるし、もうそれに気づいている。これは大事です。もうすでに、どうすればその力を充実させられるか気づいている。いつでもぞの力を使って、人に与えられるのです。

私は今このように言っていますが、あくまで現代の日本人に向けてです。現代の日本人のほとんどは私と同じく、本当は恵まれているけどそれに目を向けられない、気づかない人だからです。アフリカや、紛争地域でこんなことはとてもじゃないが言えません。私は与えられすぎている。

本当はみなさん、家もあるし、いつでも飲める綺麗な水が手に入るし、食べ物だって昔じゃ考えられないほどのものを食べている、恵まれているんです。今の人は昔の貴族よりもずっと高級なものを食べています。
肉などという高級品を週に一回でも食べられるなら、その時点で相当恵まれているのです。世界には、絶対に体に必要な野菜さえ食べられない人がいる。

それぞれに言い分はあると思いますが、理屈抜きに、皆さんはこの命以外にも、さまざまなものが与えられているはず。「その分奪われているんだからしょうがないだろ」と主張される方に言いたい。
さっきも言った通り、「奪われた」というのは事実です。事実は事実のままにしておいて、わざわざ心でそれに意味づけをし、心の力を弱める必要はないでしょう。

あなた方はすでに、心の力を強める方法を学んだのです。その力を使って、人に与えてみてはどうですか。

本日の真のひとことは以上です。もう夜ですが、とにかく夜は、明るいこと、楽しいことを考えてくださいね。
最後まで読んでくださりありがとうございました。